火曜日の午後
# 火曜日の午後
三時前だった。
春にしては少し雲の多い日で、窓から入る光が白っぽかった。
客は一人だけだった。カウンターの端に、五十代くらいの男性が座って、静かにコーヒーを飲んでいた。常連ではない。
私はカウンターの奥で、豆を袋詰めしていた。
ドアベルが鳴った。
四十代くらいの男性が二人、入ってきた。大学の教員のような雰囲気だった。どちらも少し疲れた顔をしていたが、歩き方に元気があった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを二つ」
奥のテーブルに座った。鞄を置いて、上着を脱いだ。
コーヒーを運んだ。
「スペイン風邪の話、続きをしようか」と一人が言った。
「そうですね」ともう一人が言った。「さっきの続きから」
「一九一八年から二〇年にかけて、世界で五千万から一億人が亡くなったとされてる」
「一億」
「一億」と最初の男が繰り返した。「第一次世界大戦の戦死者が約一千七百万人だから」
「戦争より、感染症の方が」
「圧倒的に多い」
「しかも三年足らずで」
「三年足らずで、それだけの人が」
私は袋詰めの手を動かしながら、聞いていた。
「スペイン風邪って、スペイン発祥じゃないんですよね」ともう一人が言った。
「そう。アメリカ発祥という説が有力で」
「なぜスペインと呼ばれるようになったんですか」
「第一次世界大戦中だったから、参戦国は情報統制をしていて、感染者数を公表しなかった」
「国威に関わるから」
「そう。でもスペインは中立国だったから、報道規制がなかった。スペイン国王も感染したと大きく報道されて」
「スペインだけが正直に報道した結果、スペインの名前がついた」
「そういうことになる」と最初の男が言った。
カウンターの端の男性が、静かにコーヒーを飲んだ。
「ペストはどうですか」ともう一人が言った。
「ペストは十四世紀のヨーロッパで、当時のヨーロッパの人口の三分の一が亡くなったとされてる」
「三分の一」
「三分の一」と最初の男が言った。「ヨーロッパの総人口が七千万から八千万人くらいだったから、二千万人以上が」
「短期間で」
「十年足らずで」
「十年足らずで三分の一」
二人が少し黙った。コーヒーを飲んだ。
「ペストは、社会まで変えましたよね」ともう一人が言った。
「変えた。労働者が大量に亡くなったから、残った人の労働力の価値が上がった」
「農奴制が揺らいだ」
「領主に縛られていた農民が、自分の価値を主張できるようになった」
「感染症が、封建制度を崩すきっかけになった」
「直接の原因とは言えないけど、一つのきっかけにはなった」と最初の男が言った。「歴史って、そういうことがある」
「予期しない形で、変わる」
「変わる。誰も意図しない方向に」
私はグラスを磨いた。
「天然痘はどうですか」ともう一人が言った。
「天然痘は長い。人類が感染症と戦った歴史の中で、一番長い相手かもしれない」
「三千年以上の歴史がある」
「ミイラにも天然痘の痕跡が見つかってる」
「ファラオのミイラに」
「そう。ラムセス五世のミイラに」最初の男が言った。「三千年以上前の人が、天然痘で亡くなった可能性がある」
「それが二十世紀まで続いた」
「二十世紀まで毎年何百万人も亡くなっていた感染症が、ワクチンで根絶された」
「一九八〇年にWHOが根絶宣言を出した」
「人類が根絶に成功した感染症は、天然痘だけ」ともう一人が言った。
「だけ」と最初の男が繰り返した。「今のところ」
「今のところ」
カウンターの端の男性が、コーヒーをおかわりした。私は静かに淹れて、出した。男性は小さく頷いた。
「コレラも、何度も流行しましたよね」ともう一人が言った。
「十九世紀に、パンデミックが何度も起きてる」
「六回か七回」
「ロンドンでも大流行して、当時は空気感染だと思われていた」
「ミアズマ説ですね」
「汚れた空気が病気を運ぶ、という考えで」最初の男が言った。「でもジョン・スノウという医師が、地図に感染者の位置をプロットして」
「汚染された井戸から感染が広がっていることを突き止めた」
「疫学の始まりと言われてる」
「感染症の研究が、地図から始まった」ともう一人が言った。「面白いですね」
「地図を使って、見えないものを見えるようにした」と最初の男が言った。
「見えないものを、見えるように」
私はカウンターを拭きながら、その言葉を聞いた。
「ハンセン病もありますね」ともう一人が言った。
「長い歴史の感染症で」最初の男が言った。「病気そのものよりも、差別の歴史が重くて」
「感染力が実はそれほど高くないのに」
「高くないのに、長い間、隔離が続いた」
「誤解が、病気よりも長く続いた」
「そういうことが、感染症の歴史には多い」と最初の男が言った。「病気が終わっても、偏見が終わらない」
「終わらないことがある」
二人がしばらく黙った。
「感染症の歴史を調べると」ともう一人が言った。「人間は何度も同じことを繰り返してる気がして」
「繰り返してる」
「パニックになって、誰かを責めて、根拠のないことを信じて」
「でも、そのたびに何かを学んで」と最初の男が言った。
「学んで、また繰り返す」
「繰り返すけど、少しずつ変わってる気もする」
「気もする」ともう一人が言った。「気もするけど、確信は持てない」
「確信は持てない」と最初の男が言った。「でも、ジョン・スノウの地図は残ってる。ワクチンで天然痘を根絶した記録は残ってる」
「残ってる」
「残ってるものがある、ということが、少しだけ」最初の男が言った。
「少しだけ」
「少しだけ、救いかもしれない」
二人がコーヒーを飲み終えた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
二人が出ていった。
カウンターの端の男性も、少しして立ち上がった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございます」
男性が出ていった。
一人になった。
残ってるものがある、ということが、少しだけ救いかもしれない。
コーヒーを一口飲んだ。
この店も、五十年、残っている。川崎さんが残したものを、私が引き継いでいる。それが何かの救いになっているかどうかは、わからない。でも、残っている。
Wikipedia読んでるみたいな話。




