月曜日の午後
# 月曜日の午後
二時を過ぎた頃だった。
月曜日の午後は静かだ。週が始まったばかりで、みんなまだ動き出している。
笹木さんがカウンターの端で文庫本を読んでいた。今日は栞を何度も挟み直していた。読んでいるというより、考えている日のようだった。
ドアベルが鳴った。
三人連れが入ってきた。二十代くらいの女性が二人と、三十代くらいの男性が一人。大学のサークルとも、会社の同僚とも違う雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを三つください」
奥のテーブルに座った。三人ともノートを持っていた。
コーヒーを運んだ。
「じゃあ、続きをやりましょうか」と男性が言った。
「はい」と女性の一人が言った。もう一人は少し緊張した顔でノートを開いた。
「短歌って、まず三十一文字、ということは覚えてますか」と男性が言った。
「五七五七七ですよね」と緊張した方の女性が言った。
「そう。でも最初は文字を数えることより、声に出して読むことの方が大事で」
「声に出す」
「そう。短歌って、耳で聞いたときに気持ちいいかどうか、というのがまずある」
男性がノートを開いた。
「有名なやつから入りましょうか。石川啄木」
「啄木は聞いたことあります」
「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず、という歌があって」
緊張した女性がノートに書き留めた。
「意味はわかりますか」
「お母さんをおんぶしたら、軽くて、悲しくなった」
「そう。それだけの話なんですよ」と男性が言った。「でも、三歩あゆまず、という終わり方が、ただそれだけじゃなくなる」
「三歩あゆまず」女性が繰り返した。「三歩だけ歩いて、止まった」
「止まらずにいられなかった、ということだよね」
「うん」
「それを説明しないで、三歩あゆまず、で終わる」
「説明しない方が、伝わる」ともう一人の女性が言った。
「そう。短歌の面白さって、そこにある気がして」と男性が言った。「言わないことで、言う」
私はカウンターの奥でグラスを磨きながら、聞いていた。
笹木さんが栞を挟んで、本を閉じた。
「他にも好きなのを教えてください」と緊張した女性が言った。
「与謝野晶子はどうかな」と男性が言った。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
「意味が、少し難しい」
「君は道徳とか正しさとかを語るけど、この熱い肌に触れもしないで、それで寂しくないの、という歌で」
女性が「あ」という顔をした。
「すごいですね」
「すごいでしょ」と男性が言った。「明治の終わり頃に、女性がこれを詠んで、発表した」
「明治に」
「当時は相当、衝撃的だったと思う」
「今読んでも、なんか、ドキッとする」ともう一人の女性が言った。
「するよね。百年以上経っても、ドキッとする言葉が、三十一文字に入ってる」
笹木さんがコーヒーを飲んだ。
「小野小町はどうですか」と緊張した女性が言った。「百人一首で習ったような」
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに、かな」と男性が言った。
「桜の色が褪せてしまったという歌ですよね」
「表向きはそう。でも、花の色と、わが身、が重なってる」
「自分のことも言ってる」
「言ってる。長雨を眺めている間に、桜も自分も、気づいたら変わっていた」
「ながめ、が長雨と眺めの掛詞で」ともう一人の女性が言った。
「そうそう。一つの言葉に二つの意味を持たせる。それで三十一文字の中に、もっと多くのものを入れる」
「贅沢な使い方ですね、言葉の」と緊張した女性が言った。
「贅沢」と男性が繰り返した。「いい言い方だな、それ」
私はグラスを棚に戻した。
「自分で詠むのは、難しいですか」と緊張した女性が言った。
「難しくはないと思う」と男性が言った。「ただ、最初は説明したくなるんだよ」
「説明したくなる」
「何かを感じて、それをそのまま言葉にしたくなる。でも説明になると、短歌じゃなくて文章になる」
「どう違うんですか」
男性が少し考えた。
「たとえば、電車が遅延して、イライラした、という気持ちを詠むとして」
「はい」
「電車遅れてイライラしたという感想をそのまま書いても、短歌にならない」
「じゃあ、どう書くんですか」
「その時、何を見てたか、何が目に入ったか、を書く」と男性が言った。「ホームに並んでる人の足元が全員同じ方向を向いてる、とか」
「あ」と女性が言った。
「その光景だけ書いて、イライラとは一言も言わない」
「言わなくても、伝わる」
「伝わるかどうかは、読む人によるけど」と男性が言った。「でも、伝わったときに、説明した時より深い部分まで伝わる気がして」
「説明しない方が、深く伝わる」
「かもしれない。短歌に限らず」
笹木さんが小さく頷いた。私には見えたが、三人には見えなかっただろう。
「正岡子規の短歌も好きで」と男性が続けた。「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」
「きれい」と一人が言った。
「これは説明がほとんどない歌で。薔薇の芽が二尺伸びて、針がやわらかくて、春雨が降ってる。それだけ」
「それだけなのに、景色が浮かぶ」
「浮かぶんだよ。見えてくる。においまでする気がする」
「春雨のにおいが」
「する気がしない?」
緊張した女性がもう一度、声に出して読んだ。くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる。
「する」と女性が言った。「する気がします」
「そういうことが、三十一文字でできる」
三人がしばらく黙った。コーヒーを飲んだ。
「詠んでみたやつ、持ってきたんですけど」と緊張した女性が言った。ノートを開いた。「見てもらえますか」
「見せて」
女性がノートを男性の方に向けた。男性が読んだ。
「読んでいいですか」と男性が言った。
「はい」
「コンビニのレジに並んで気づいたら前行く人と同じ傘色」
しばらく間があった。
「いいと思う」と男性が言った。
「そうですか」女性が少し驚いた顔をした。
「気づいたら、というところが、いい」
「なんか、変な歌だなと思って」
「変じゃない。小さいことに気づいた瞬間が、ちゃんと詠めてる」
「でも、オチがなくて」
「オチ、いらないんだよ」と男性が言った。「傘の色が同じだった、で終わっていい。そのあとどうなったかを書かない方が、想像が広がる」
「想像が広がる」
「同じ傘の色の人と、その後話したのか、話さなかったのか、気まずかったのか、微笑んだのか。読む人が考える」
「書かない方が、読む人が考えてくれる」
「そういうことだと思う」
もう一人の女性が「私も見てもらっていいですか」と言った。
「どうぞ」
「夕方の駅のホームで鳩一羽だけいてこちらをじっと見ていた」
男性が読んだ。
「一羽だけ、というのが、いい」
「そうですか」
「鳩は普通、群れてる。その中で一羽だけいた、ということに、なんか孤独な感じがある」
「孤独」女性が言った。「鳩のことを詠んだつもりだったんですけど」
「詠んだ人のことも、入ってる気がする」と男性が言った。「夕方のホームで、一羽の鳩と目が合った人の、気持ちも」
女性がしばらく黙った。
「そうかもしれない」
三人がコーヒーを飲み終えた。
「来週も、やりますか」と男性が言った。
「やりたいです」と緊張していた方の女性が言った。「また詠んできます」
「詠んできてください。うまくなくていいので」
「うまくなくていい」
「うまい短歌より、その人にしか詠めない短歌の方が、面白いから」
三人が立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
三人が出ていった。
笹木さんが本を開いた。しばらくして、また閉じた。
「説明しない方が、深く伝わる」と笹木さんが言った。独り言のように。
「そうですね」
「本も、そういうことがある」笹木さんが言った。「言わない作家の方が、好きです」
「そうですか」
笹木さんが会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
笹木さんが出ていった。
一人になった。
言わないことで、言う。
コーヒーを一口飲んだ。
この店でも、そういうことがある気がした。何も言わずにコーヒーを出す。それだけで、伝わるものが、たまにある。伝わったかどうかは、わからないけれど。
短歌を考えるのが一番大変でした。




