日曜日の夕方
# 日曜日の夕方
五時を過ぎた頃だった。
日曜日は客層が変わる。平日のスーツがいない。みんな少し、ゆっくりしている。
健太が奥のテーブルを拭いていた。
カウンターに常連ではない男性が一人。窓際に女性が一人。どちらも静かにコーヒーを飲んでいた。
ドアベルが鳴った。
二十代くらいの男女が二人、入ってきた。カップルではなさそうだ。どちらも大きめのトートバッグを持っている。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを二つ」
奥のテーブルに座った。健太が「お待ちしてました」と言った。二人は少し驚いた顔をした。
私も少し驚きつつ、コーヒーを運んだ。
「読んだ?」と女性の方が言った。トートバッグからコミックスを取り出しながら。
「読んだ」と男性が言った。「やばかった」
「やばかったでしょう」
「ハコヅメ、やばい」
「やばい」
「警察の話であんなに笑えるとは思わなかった」
「思わないよね」女性が言った。「しかもちゃんと仕事の話もしてて」
「してる。笑いながら、警察の仕事がわかる」
「わかる。読み終わったあとに、交番の前を通ると、なんか親近感が湧く」
「わかる。あの人たちも大変なんだな、って」
「大変だよ。藤部長が大変すぎる」
男性が笑った。
「藤部長は大変だけど、川合も大変だよ」
「川合の方が大変かな」
「どっちが大変か争ってる場合じゃないよ、あそこ」
健太がカウンターに戻ってきた。
「ハコヅメ、知ってます」と健太が小声で私に言った。
「そうですか」
「面白いですよね。うちの母親も読んでます」
「ああ」
「こち亀とは別ジャンルの交番ものですね」
私はグラスを磨いた。
「かげきしょうじょも読んだ?」と女性が言った。
「読んだ。泣いた」
「泣くよ」
「途中から、ずっと泣いてた」
「どこから」
「ストーカーの話が出てきたあたりから、もう」
「そこから泣くのは早い」と女性が言った。「でもわかる」
「あの話、宝塚を元にした話なのに、宝塚を全然知らなくても読める」
「読める。むしろ知らない方が、純粋に入れるかもしれない」
「かもしれない」男性が言った。「読む前と後で、宝塚への解像度が全然違う」
「違う。歌劇団って、そういうものだったのか、って」
「あの厳しさも、華やかさも、全部ちゃんとある」
「ある」女性が言った。「でも嫌な感じがしない。厳しい世界を描いてるのに」
「なんでだろうな」
「愛があるからじゃないかな、作者に」女性が少し考えながら言った。「こういう世界が好きで、描いてる感じがする」
「好きで描いてる漫画って、わかるよね」
「わかる」
コーヒーのカップが少し減っていた。
「へうげものは?」と男性が言った。
「読んでる途中」
「途中か」
「難しくない?」女性が言った。「戦国時代の話なのに、テーマが美意識で」
「難しいけど、そこが面白い」
「面白いんだけど、追いつくのが大変で」
「追いつくのが大変なのはわかる」男性が言った。「でも、読んでると、なんか自分の美意識みたいなものを考えさせられる」
「考えさせられる」
「お茶碗一個で、これは良い、これは良くない、って真剣に議論してる人たちが、戦国武将で」
「戦国武将なのに」
「戦国武将なのに、美しいかどうかで、命のやり取りをしてる場面もあって」
「うんうん」女性が言った。「美意識って、そこまでのものなのか、って」
「命がけになれるものが、ある人はいる」
「ある人はいる、か」女性が繰り返した。「私にはあるかな」
「あるでしょ」
「どうだろう」
男性がコーヒーを飲んだ。
健太がまた小声で私に言った。
「へうげもの、聞いたことはあります」
「読んだことは?」
「ないです」
「私も読んでいません」
「マスターも読まないんですね」
「漫画はあまり」
健太が「そうか」という顔をした。
「この世界の片隅にはどうだった?」と女性が言った。
男性がしばらく黙った。
「あれは、すごかった」
「すごかった」
「すごかったけど、感想を言葉にしにくい」
「しにくいよね」女性が言った。「面白かったって言うのも、なんか違う気がして」
「違う。でも、読んでよかった、とは思う」
「思う」
「戦時中の話なのに、日常の話で」
「日常の話なんだよ」女性が言った。「ご飯を作って、洗濯して、笑って、泣いて」
「その日常の中に、戦争がある」
「戦争が背景じゃなくて、日常の中に混ざってる感じ」
「混ざってる」男性が言った。「だから余計に、しんどい場面がしんどい」
「しんどい。でも、すずさんが、どこにでもいる人で」
「どこにでもいる人なんだよ」
「どこにでもいる人の話だから、遠くない」
「遠くない」男性が言った。「時代は全然違うのに、遠くない」
二人がしばらく黙った。コーヒーを飲んだ。
「四冊の中で、一番好きなのどれ?」と男性が言った。
「聞く?」女性が言った。
「聞く」
「難しいな」女性がしばらく考えた。「今の気分だと、かげきしょうじょかな。でも来週聞いたら変わるかもしれない」
「わかる」
「あなたは?」
「この世界の片隅に、かな」男性が言った。「でも一番笑ったのはハコヅメで、一番考えさせられたのはへうげもので」
「全部、一番が違う」
「違う。ジャンルが全部違うから」
「違うのに、どれも面白い」女性が言った。「漫画って、すごいな」
「すごい」
「文字だけじゃ伝わらないものが、絵があると伝わる」
「絵と文字が合わさって、初めてなる、みたいなものがある」
「ある」女性が言った。「すずさんの表情とか、文字だけじゃ絶対あの感じにならない」
「ならない。あの絵だから、すずさんなんだよ」
「そうなんだよ」
健太が私のそばに来た。
「マスター、この世界の片隅に、読んだことありますか」と健太が言った。今度は小声ではなかった。
「ないですよ」
「読んだ方がいいですよ」健太が言った。「僕は映画で見たんですけど」
「そうですか」
「泣きました」
「そうですか」
「マスターも泣くと思います」
「うーん」
二人が健太の方を見た。
「映画、よかったですよね」と女性が言った。健太に向かって。
「よかったです」と健太が言った。「漫画と映画、どっちがいいですか」
「どっちも、かな」と女性が言った。「漫画の方が、時間をかけて読めるから、じわじわくる感じがある」
「映画は?」
「映画は、音楽があるから」女性が少し考えた。「あの音楽が流れると、もうだめで」
「わかります」健太が言った。「音楽、ずるいですよね」
「ずるい」男性が笑った。「ずるいけど、いい」
しばらくして、二人は立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「面白い漫画、知っていたら教えてください」と男性が私に言った。
「私はあまり読まないので」
男性が笑った。「でも、お客さんから聞いたりしませんか」
「たまに」
「今度、教えてください」
二人が出ていった。
健太が二人の使ったテーブルを拭きながら言った。
「マスター、やっぱり読んだ方がいいですよ、この世界の片隅に」
「そうですかね」
「絶対読んだ方がいいです」健太が言った。「僕が貸しますよ」
「持ってるんですか」
「持ってます」
「そうですか」
「読みますか」
しばらく考えた。
「まあ」
健太が嬉しそうな顔をした。余計なことを言ったかもしれない、と少し思った。
カウンターに戻って、コーヒーを一口飲んだ。
どこにでもいる人の話が、時代を超えて残っている。どこにでもいる人が、丁寧に描かれると、遠くならない。
この店に来る人たちも、どこにでもいる人たちだ。それでいい、と思った。
うちにある漫画で構成してみました。




