土曜日の午後
# 土曜日の午後
三時を少し過ぎた頃だった。
窓から入る光が、週の終わりの角度になっていた。
笹木さんがカウンターの端にいた。今日は文庫本を持っていなかった。珍しいことだった。
「本、持ってこなかったんですか」と私は言った。
「たまには」と笹木さんが言った。「何も持たずに来る日があってもいいでしょう」
「どうぞ」
笹木さんがコーヒーを飲んだ。
ドアベルが鳴った。
四十代くらいの女性が入ってきた。一人だった。きれいに整えた格好で、小さなバッグを持っている。店内を見渡して、カウンターに座った。笹木さんの隣だった。
「ブレンドを」
「はい」
コーヒーを出した。女性は一口飲んで、少し息を抜いた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「本屋さんって、近くにありますか」と女性が言った。
私に聞いていた。
「一本隣の通りに、小さいのが一軒」と私は言った。
「ああ」と笹木さんが言った。「それ、私の店です」
女性が笹木さんを見た。
「そうなんですか」
「ええ」
「店番はしなくていいんですか」
「今は主人が見てます」
女性が少し笑った。「実は本を探してて」
「どんな本ですか」
「それが、うまく説明できなくて」女性が言った。「タイトルも著者名も忘れてしまって」
「内容は覚えてますか」
「なんとなく。主人公が女の人で、海外が舞台で、最後に少し救われる話だったと思うんですけど」
笹木さんがコーヒーを飲んだ。
「最後に少し、というのが」
「少しなんですよ。すごくハッピーというわけじゃなくて。でも読み終わったあと、悪くない気持ちになれる」
「文庫でしたか」
「文庫だったと思います。表紙が青っぽかった」
「青っぽい」笹木さんが繰り返した。「海外が舞台というのは、ヨーロッパですか」
「ヨーロッパだったと思います。町の描写がきれいだった記憶があって」
「いつ頃読みましたか」
「十年くらい前、かな」女性が言った。「図書館で借りたから、手元にはなくて」
笹木さんがしばらく考えた。
「カズオ・イシグロは読みましたか」
「読んだことないです」
「翻訳ものでしたか」
「多分」
「……エリザベス・ストラウトはどうですか」と笹木さんが言った。「オリーブ・キタリッジという小説があって」
「どんな話ですか」
「メイン州の小さな町が舞台で、主人公は少し頑固なおばさんで」笹木さんが言った。「すごく救われるという話ではないんですけど、読み終わったあとに、じわっとくる」
「じわっと」
「そう。あとから来る感じです」
女性が少し考えた。
「それかもしれない。でも確か、もっとザ・ヨーロッパって感じだった気がして」
「そうですか」笹木さんが言った。「ヨーロッパで、町の描写がきれいで」
「そうなんです」
「パスカル・メルシエのリスボンへの夜行列車はどうですか」
「リスボン」
「ポルトガルが舞台です。主人公は男の人ですけど、町の描写がきれいで」
「主人公が男の人なら違いますね」
「そうですね」笹木さんがまたコーヒーを飲んだ。「女性が主人公で、ヨーロッパで、町がきれいで、最後に少し救われる」
「そうなんです」女性が笑った。「われながら手がかりが少ないと思って」
「でも、そういう探し方の方が面白いです」と笹木さんが言った。
「そうですか」
「タイトルで探すより、感触で探す方が、思ってなかった本に出会うことがあるんですよ」
私はカウンターを拭きながら聞いていた。
「私のオススメでよければ、アリス・マンローはどうですか」と笹木さんが言った。「カナダの作家で、短編が多いんですけど」
「短編ですか」女性が考えた。「長編が好きですね」
「そうですか」
「一冊じっくり読むのがいいです」
「長編なら……」笹木さんが言った。「ジュンパ・ラヒリはご存知ですか」
「知らないです」
「インド系の作家で、イタリアに移住してイタリア語で書いた本があって」笹木さんが言った。「べつの言葉でという本なんですけど、これはエッセイですね」
「エッセイはあまり読まないですね」
「そうですか」笹木さんがしばらく黙った。「ヴィルヘルム・ゲナツィーノという作家はどうですか。ドイツの作家で、幸福は小さな不幸のあとにという小説がある」
「タイトルが、なんか、いい感じです」と女性が言った。
「そうですか」笹木さんが少し顔を上げた。
「最後に少し救われる、という感じに近い気がします」
「これも主人公は男の人なんですけど」
女性が笑った。「でも気になります、それ」
「在庫があるかどうか、確認しないといけないですけど」笹木さんが言った。「もし気に入らない場合、返しに来てください」
「返していいんですか」
「少し読んでみて、違ったと思ったら」笹木さんが言った。
「本屋さんで、そういうことができるんですね」
「小さい店なので」笹木さんが言った。「融通がきく部分もあります」
女性がコーヒーを飲んだ。
「さっきのオリーブ・キタリッジも気になりました」と女性が言った。
「じゃあ、両方」笹木さんが言った。「読み比べてみたら、探していた本の感触に近い方があるかもしれない」
「それはいい方法ですね」
「読んでみたら、探していた本とは別に気に入るかもしれない」
「それはそれで」女性が笑った。「いいですね」
「そういうことが、本を探してると起きるんです」笹木さんが言った。「探しているものと、見つかるものが、ずれる」
「ずれる」
「ずれた方が面白いことも多いです」
女性がしばらくコーヒーを飲んだ。
「いつか思い出すかもしれない」
「思い出したら、また来ます」
「ぜひ」と笹木さんが言った。「その本も、うちに置いてあるかもしれないので」
二人が笑った。
女性が先に会計をして出ていった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。この後でお店、寄ってみます」
「是非」
扉が閉まった。
笹木さんがコーヒーの残りを飲んだ。
「見つかるといいですね」と私は言った。
「そうですね」と笹木さんが言った。
笹木さんが少し笑って、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
笹木さんが出ていった。
一人になった。
探しているものと、見つかるものが、ずれる。
コーヒーを一口飲んだ。
この店に来る人も、最初から喫茶店を探していたわけではない人がいる。ふと入ってみたら、ここだった、という人が。そういう人が、長く来てくれることが多い気がした。
笠木さん、早々に当てるのを諦めています。




