表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/61

金曜日の夕方

# 金曜日の夕方


金曜日の夕方五時。店内には三人の客がいた。


カウンターに笹木さんが文庫本を開いている。窓際に、六十代くらいの夫婦が静かにコーヒーを飲んでいた。


私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。


扉が開いた。


「遅くなりました」


三十代から四十代くらいの男性が三人、入ってきた。一人が大きな鍋を両手で抱えている。一人がタッパーを持っている。一人が手ぶらだった。


「ああ、お待ちしていました」


「すみません、こんな時間に」


「いえ」


鍋を持った男性が、鍋を少し持ち上げて見せた。


「肉じゃが、持ってきました」


「楽しみです」


私はカウンターの隅に場所を作った。三人がそれぞれ荷物を置いた。鍋。赤いタッパー。青いタッパー。


笹木さんが本から目を上げた。


「肉じゃが?」


「前に約束したんです」と鍋の男性が言った。「マスターに審査してもらうって」


「審査」


「三人それぞれ作ってきたんです」


「三人で別々に」


「別々に」


笹木さんが私を見た。私は何も言わなかった。


「冷めちゃいましたけど」と鍋の男性が言った。


「温めますか」


「温めてもらえると助かります」


私はキッチンに鍋を運んだ。タッパーも二つ預かった。タッパーの一つは青い蓋、もう一つは赤い蓋だった。


「青い方が俺です」と男性が言った。


「俺は鍋ごと持ってきた」


「だから車で来た」


「車で来たから飲めない」


「ここにアルコールはないでしょ」


「そのために来たのに」


ワイワイしながら三人がカウンターに座った。


笹木さんが「三人ともレシピが違うんですか」と聞いた。


「違います」と鍋の男性が言った。「うちは母親のレシピ」


「俺のはネットで調べた」と青タッパーの男性が言った。


「俺は肉じゃがを名乗っていいか微妙なやつを持ってきた」と赤タッパーの男性が言った。


「微妙とは」


「牛肉ではないので」


「何肉ですか」


「鶏肉」


「それは肉じゃがではない」と鍋の男性が言った。


「肉じゃがの派生です」


「派生じゃない。別の料理だ」


「でも作り方は同じです」


「肉が違う」


「肉の種類を変えただけです」


笹木さんが「肉じゃがって、肉は何ですか」と私に聞いた。


「牛か豚が多いですね」


「鶏は」


「鶏の肉じゃがも、あります」


赤タッパーの男性が「ほら」と言った。


「あっても、主流じゃない」と鍋の男性が言った。


「主流じゃなくても、肉じゃがだ」


「認めない」


「頑固だな」


私はキッチンで鍋を温めはじめた。タッパーの二つも、小鍋に移して火にかけた。それぞれ別々に。


コーヒーを三人に出した。


「それで」と笹木さんが三人に言った。「いつから約束してたんですか」


「先月ここで話して」と鍋の男性が言った。


「それぞれ作ってみよう、ということになって」


「マスターが審査してくれるって」


笹木さんが私を見た。


「私から言った訳じゃないですよ」


「どんな基準で審査するんですか」


「さあ」


「さあって」と笹木さんが言った。


「食べてみないとわかりません」


窓際の夫婦が会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


夫婦が出ていった。店内が少し静かになった。


キッチンから、いい匂いがしてきた。醤油と砂糖の、甘い匂い。三種類が混ざって、少し複雑な匂いになっていた。


「いい匂いですね」と笹木さんが言った。


「温まってきました」と私は言った。


「楽しみだ」と赤タッパーの男性が言った。


「鶏肉の肉じゃがが楽しみな人間がいるとは」と鍋の男性が言った。


「美味しいんだよ」


「認めてないから」


「食べてから言え」


私は三つを小鉢に盛った。それぞれ別の器に。鍋のもの。青タッパーのもの。赤タッパーのもの。並べてカウンターに置いた。


「どうぞ」


三人が身を乗り出した。


笹木さんも少し身を乗り出した。


「私も食べていいですか」


「どうぞ」と三人が言った。声が揃った。


私は笹木さんにも小鉢を分けた。


まず鍋のものを食べた。じゃがいもがよく煮えていた。甘めの味付けだった。肉は牛肉で、しっかり味が染みていた。


「どうですか」と鍋の男性が聞いた。


「美味しいです」


「どのあたりが」


「全体的に」


「全体的に、は審査じゃない」と鍋の男性が言った。


「甘めで、じゃがいもによく味が入っています」


「母親のレシピなんで」と鍋の男性が言った。少し照れた顔をした。


次に青タッパーのものを食べた。こちらは少し薄味だった。じゃがいもが少し固かった。肉は豚肉だった。


「どうですか」と青タッパーの男性が聞いた。


「じゃがいもが、もう少し煮てもよかったかもしれません」


「固かったですか」


「少し」


「やっぱり」と青タッパーの男性が言った。「レシピより短い時間で火を止めたんですよ」


「なぜ止めたんですか」


「遅刻しそうだったので」


「遅刻しそうだから固いままにしたんですか」


「はい」


鍋の男性が「それを審査に持ってくるな」と言った。


「本番は完璧に作ります」


「本番って何ですか」


「次回です」


「次回があるんですか」


「あってもいいじゃないか」


最後に赤タッパーのものを食べた。鶏肉だった。あっさりしていた。じゃがいもはちょうどよく煮えていた。


「どうですか」と赤タッパーの男性が聞いた。


「あっさりして、食べやすいですね」


「肉じゃがだと認めますか」


私は少し考えた。


「鶏の肉じゃがとして、美味しいと思います」


「鶏の肉じゃがとして、か」と鍋の男性が言った。


「認めてもらえた」と赤タッパーの男性が言った。


「限定的にな」


笹木さんが三つ食べ終えて、コーヒーを飲んだ。


「私は鶏が好きでした」


赤タッパーの男性が「ありがとうございます」と言った。


「あっさりして、このあとコーヒーを飲んでも邪魔しない感じ」


「それは大事な基準ですね」と私は言った。


「そうですか」


「コーヒーと一緒に食べるなら、あっさりの方が合います」


赤タッパーの男性が鍋の男性を見た。


「コーヒーに合う肉じゃがという基準で言えば、俺の勝ちだ」


「そんな基準は最初にない」


「今できた」


「認めない」


しばらく三人で話していた。今度また作ってくるかどうか。鍋で持ってくるのは重いかどうか。青タッパーの男性が次回は固くしないと言った。


笹木さんが会計に来た。


「ごちそうさまでした。肉じゃが、美味しかったです」


「よかったです」


「三人とも、ちゃんと作ってきたんですね」


「そうですね」


「偉いわ」と笹木さんが言った。「自分で作ってきたんでしょう」


「男の人が肉じゃがを作る、というのは」と笹木さんが少し考えた。「誰かに食べさせたかったのかしら、本来は」


誰も何も言わなかった。


笹木さんが「余計なことを言いました」と言って、出ていった。


三人が帰り支度を始めた。


「ありがとうございました」


「いえ」


「結果は」と鍋の男性が聞いた。


「甲乙つけがたいですが」と私は言った。


「つけてください」


「それぞれ違う美味しさがありました」


「それは引き分けですか」


「引き分けです」


鍋の男性が「もう一回やります」と言った。


「またですか」と青タッパーの男性が言った。


「じゃがいもにちゃんと火を通せ」


「わかってるよ」


「鶏肉は肉じゃがとして認めない」


「認められなくていい」


三人が笑いながら出ていった。


鍋を洗いながら、さっきの笹木さんの言葉を思い出した。


誰かに食べさせたかったのかしら、本来は。


さあ。そこまでは知らない。


でも、三人はちゃんと作ってきた。金曜の夜に、鍋を抱えて。それだけのことは確かだった。


私はコーヒーを一口飲んだ。


金曜日の夕方。また一週間が終わる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ