金曜日の夕方
# 金曜日の夕方
金曜日の夕方五時。店内には三人の客がいた。
カウンターに笹木さんが文庫本を開いている。窓際に、六十代くらいの夫婦が静かにコーヒーを飲んでいた。
私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。
扉が開いた。
「遅くなりました」
三十代から四十代くらいの男性が三人、入ってきた。一人が大きな鍋を両手で抱えている。一人がタッパーを持っている。一人が手ぶらだった。
「ああ、お待ちしていました」
「すみません、こんな時間に」
「いえ」
鍋を持った男性が、鍋を少し持ち上げて見せた。
「肉じゃが、持ってきました」
「楽しみです」
私はカウンターの隅に場所を作った。三人がそれぞれ荷物を置いた。鍋。赤いタッパー。青いタッパー。
笹木さんが本から目を上げた。
「肉じゃが?」
「前に約束したんです」と鍋の男性が言った。「マスターに審査してもらうって」
「審査」
「三人それぞれ作ってきたんです」
「三人で別々に」
「別々に」
笹木さんが私を見た。私は何も言わなかった。
「冷めちゃいましたけど」と鍋の男性が言った。
「温めますか」
「温めてもらえると助かります」
私はキッチンに鍋を運んだ。タッパーも二つ預かった。タッパーの一つは青い蓋、もう一つは赤い蓋だった。
「青い方が俺です」と男性が言った。
「俺は鍋ごと持ってきた」
「だから車で来た」
「車で来たから飲めない」
「ここにアルコールはないでしょ」
「そのために来たのに」
ワイワイしながら三人がカウンターに座った。
笹木さんが「三人ともレシピが違うんですか」と聞いた。
「違います」と鍋の男性が言った。「うちは母親のレシピ」
「俺のはネットで調べた」と青タッパーの男性が言った。
「俺は肉じゃがを名乗っていいか微妙なやつを持ってきた」と赤タッパーの男性が言った。
「微妙とは」
「牛肉ではないので」
「何肉ですか」
「鶏肉」
「それは肉じゃがではない」と鍋の男性が言った。
「肉じゃがの派生です」
「派生じゃない。別の料理だ」
「でも作り方は同じです」
「肉が違う」
「肉の種類を変えただけです」
笹木さんが「肉じゃがって、肉は何ですか」と私に聞いた。
「牛か豚が多いですね」
「鶏は」
「鶏の肉じゃがも、あります」
赤タッパーの男性が「ほら」と言った。
「あっても、主流じゃない」と鍋の男性が言った。
「主流じゃなくても、肉じゃがだ」
「認めない」
「頑固だな」
私はキッチンで鍋を温めはじめた。タッパーの二つも、小鍋に移して火にかけた。それぞれ別々に。
コーヒーを三人に出した。
「それで」と笹木さんが三人に言った。「いつから約束してたんですか」
「先月ここで話して」と鍋の男性が言った。
「それぞれ作ってみよう、ということになって」
「マスターが審査してくれるって」
笹木さんが私を見た。
「私から言った訳じゃないですよ」
「どんな基準で審査するんですか」
「さあ」
「さあって」と笹木さんが言った。
「食べてみないとわかりません」
窓際の夫婦が会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
夫婦が出ていった。店内が少し静かになった。
キッチンから、いい匂いがしてきた。醤油と砂糖の、甘い匂い。三種類が混ざって、少し複雑な匂いになっていた。
「いい匂いですね」と笹木さんが言った。
「温まってきました」と私は言った。
「楽しみだ」と赤タッパーの男性が言った。
「鶏肉の肉じゃがが楽しみな人間がいるとは」と鍋の男性が言った。
「美味しいんだよ」
「認めてないから」
「食べてから言え」
私は三つを小鉢に盛った。それぞれ別の器に。鍋のもの。青タッパーのもの。赤タッパーのもの。並べてカウンターに置いた。
「どうぞ」
三人が身を乗り出した。
笹木さんも少し身を乗り出した。
「私も食べていいですか」
「どうぞ」と三人が言った。声が揃った。
私は笹木さんにも小鉢を分けた。
まず鍋のものを食べた。じゃがいもがよく煮えていた。甘めの味付けだった。肉は牛肉で、しっかり味が染みていた。
「どうですか」と鍋の男性が聞いた。
「美味しいです」
「どのあたりが」
「全体的に」
「全体的に、は審査じゃない」と鍋の男性が言った。
「甘めで、じゃがいもによく味が入っています」
「母親のレシピなんで」と鍋の男性が言った。少し照れた顔をした。
次に青タッパーのものを食べた。こちらは少し薄味だった。じゃがいもが少し固かった。肉は豚肉だった。
「どうですか」と青タッパーの男性が聞いた。
「じゃがいもが、もう少し煮てもよかったかもしれません」
「固かったですか」
「少し」
「やっぱり」と青タッパーの男性が言った。「レシピより短い時間で火を止めたんですよ」
「なぜ止めたんですか」
「遅刻しそうだったので」
「遅刻しそうだから固いままにしたんですか」
「はい」
鍋の男性が「それを審査に持ってくるな」と言った。
「本番は完璧に作ります」
「本番って何ですか」
「次回です」
「次回があるんですか」
「あってもいいじゃないか」
最後に赤タッパーのものを食べた。鶏肉だった。あっさりしていた。じゃがいもはちょうどよく煮えていた。
「どうですか」と赤タッパーの男性が聞いた。
「あっさりして、食べやすいですね」
「肉じゃがだと認めますか」
私は少し考えた。
「鶏の肉じゃがとして、美味しいと思います」
「鶏の肉じゃがとして、か」と鍋の男性が言った。
「認めてもらえた」と赤タッパーの男性が言った。
「限定的にな」
笹木さんが三つ食べ終えて、コーヒーを飲んだ。
「私は鶏が好きでした」
赤タッパーの男性が「ありがとうございます」と言った。
「あっさりして、このあとコーヒーを飲んでも邪魔しない感じ」
「それは大事な基準ですね」と私は言った。
「そうですか」
「コーヒーと一緒に食べるなら、あっさりの方が合います」
赤タッパーの男性が鍋の男性を見た。
「コーヒーに合う肉じゃがという基準で言えば、俺の勝ちだ」
「そんな基準は最初にない」
「今できた」
「認めない」
しばらく三人で話していた。今度また作ってくるかどうか。鍋で持ってくるのは重いかどうか。青タッパーの男性が次回は固くしないと言った。
笹木さんが会計に来た。
「ごちそうさまでした。肉じゃが、美味しかったです」
「よかったです」
「三人とも、ちゃんと作ってきたんですね」
「そうですね」
「偉いわ」と笹木さんが言った。「自分で作ってきたんでしょう」
「男の人が肉じゃがを作る、というのは」と笹木さんが少し考えた。「誰かに食べさせたかったのかしら、本来は」
誰も何も言わなかった。
笹木さんが「余計なことを言いました」と言って、出ていった。
三人が帰り支度を始めた。
「ありがとうございました」
「いえ」
「結果は」と鍋の男性が聞いた。
「甲乙つけがたいですが」と私は言った。
「つけてください」
「それぞれ違う美味しさがありました」
「それは引き分けですか」
「引き分けです」
鍋の男性が「もう一回やります」と言った。
「またですか」と青タッパーの男性が言った。
「じゃがいもにちゃんと火を通せ」
「わかってるよ」
「鶏肉は肉じゃがとして認めない」
「認められなくていい」
三人が笑いながら出ていった。
鍋を洗いながら、さっきの笹木さんの言葉を思い出した。
誰かに食べさせたかったのかしら、本来は。
さあ。そこまでは知らない。
でも、三人はちゃんと作ってきた。金曜の夜に、鍋を抱えて。それだけのことは確かだった。
私はコーヒーを一口飲んだ。
金曜日の夕方。また一週間が終わる。




