木曜日の午後
# 木曜日の午後
三時前だった。
春の日差しが窓から斜めに入って、テーブルの端を照らしていた。
笹木さんがカウンターの定位置で文庫本を読んでいた。今日はよく読み進んでいる日で、私がコーヒーを替えてもほとんど顔を上げなかった。
ドアベルが鳴った。
三十代くらいの女性が二人、入ってきた。どちらも仕事帰りという感じではない。私服で、大きめのトートバッグを持っている。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを二つ」
窓際のテーブルに座った。
コーヒーを運ぶと、一人がトートバッグから本を取り出すところだった。赤い背表紙の、分厚い本だった。
「これ、見て」
「何、それ」
「ギネスブック。実家に帰ったら出てきた」
「懐かしい」ともう一人が言った。「実家にあるやつだ」
「捨てられないんだよね、なぜか」
カウンターに戻った。
「何年版?」と一人が聞いた。
「二〇〇三年」
「二十年以上前じゃない」
「だから今と違うとこもあるんだけど、それがまた面白くて」
「どんなの載ってるの」
「ちょっと待って」と本を持ってきた方が言った。ページをめくる音がした。「これ、世界一長い国名」
「長い国名」
「リビア。正式名称が、アラブ・リビア人民社会主義大衆国」
「長い」
「でも今はもう違う名前になってる」
「変わるんだ、国名も」
「変わる。だからギネスも更新される」
「じゃあこれ、今は違う記録なんだ」
「違うやつもある。でも変わってないやつもある」
笹木さんがページをめくった。
「世界一深い湖」と一人が読み上げた。「バイカル湖、一千六百三十七メートル」
バイカル湖、昨日も誰かが話したなと私は思った。
「世界一高い山、エベレスト八千八百四十九メートル」
「これは変わらない」
「変わらないと思う。山が急に高くなったりしないから」
「でも測り方が変わることはある?」
「あるらしいよ。エベレストも何回か測り直されてる」
「測り直して、高さが変わった」
「少し変わった。岩の高さか、雪を含めた高さかで違うし」
「山の高さって、そんなに曖昧なの」
「曖昧というか」と一人が言った。「どこまでを山と呼ぶか、ってことじゃないかな」
「どこまでを山」
「頂上の雪は、山じゃないのか、山なのか」
「そういう話になるのか」
「なるんだと思う。だからギネスも版によって数字が微妙に違う」
もう一人がページをめくった。
「世界一古い木」と一人が読み上げた。「アメリカのブリストルコーン・パイン、推定四千九百年」
「四千九百年」
「でもこれ、今はもっと古いのが見つかってたかも」
「どのくらい古いの、今の記録」
「確か五千年を超えてたと思う」
「五千年」ともう一人が言った。「ピラミッドより古い木が、今も生きてる」
「生きてる」
「今も葉っぱをつけて」
「つけてるんだよ」
二人がしばらく黙った。
「それって、場所は公表されてないんだよ」と一人が言った。
「公表されてない?」
「保護のために。どこにあるか、一般には知らされてない」
「会いに行けない」
「行けない」
「五千年生きてる木に、会いに行けない」
「会いに行けない」ともう一人が繰り返した。「なんか、いいな、それ」
「いい?」
「知らない場所で、ひっそり五千年生きてる、って感じが」
一人がしばらく考えた。
「確かに」
「有名になったら、人が押し寄せるじゃないですか」
「そうだな」
「ひっそりしてる方が、その木らしい気がする」
私はグラスを磨きながら聞いていた。ひっそり五千年、というのは、悪くない話だと思った。
「世界一たくさん読まれた本」と一人がページをめくって言った。
「何?」
「聖書」
「まあ、そうか」
「聖書がギネス記録を持ってる、っていうのが、なんか不思議な感じがする」
「言われてみれば」
「ギネスに載っていい本なのか、聖書は」
「ギネスに載ってはいけない理由もないか」
「ないけど」
笹木さんが小さく笑った。本から顔は上げなかった。
「世界一速く食べた記録とか、そういうのもあるじゃない」
「あるね」
「同じ本に、聖書と、早食いの記録が載ってる」
「ギネスブックというのはそういうものだから」
「そういうもの、か」
「なんでも記録になる。それがギネスのいいところだと思うよ」
「なんでも記録になる」と一人が繰り返した。
「ええ。早食いも、五千年の木も、同じ一ページ」
二人が顔を見合わせた。
「同じ一ページ、か」
「それはそれで、公平だね」
「世界一多い国の数に接する国」と一人がページをめくって言った。「中国、十四カ国」
「十四」
「十四の国と地続き」
「隣の国が十四」
「日本は」
「日本は島国だから、ゼロ」
「ゼロと十四か」
「どっちがいいんだろう」
「どっちがいいか、って話じゃないけど」
「でもどっちがいいか、ちょっと考えちゃう」
「隣が十四あったら、それはそれで大変そう」
「大変だろうな」
「隣が多い方が、いろいろある、ってことだから」
「いろいろありすぎるのも」
「ね」
二人が笑った。
コーヒーのカップが空になっていた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「面白かった」と本を持ってきた方が言った。本をトートバッグにしまいながら。
「実家から持ってきてよかった」ともう一人が言った。
「捨てられない理由がわかった」
二人が出ていった。
笹木さんが本を閉じた。
「ギネスブック、うちの書店でもよく売れるわ」
「そうですか」
「子供の頃、夢中になったの」
「そうですか」
「なんでも記録になる、というのが好きで」笹木さんが言った。「世界一遅い、とか、世界一小さい、とかも載ってるから」
「一番じゃなくてもいい」
「そう。一番じゃなくても、何かで記録になれる」笹木さんが少し笑った。「子供には、それが嬉しかったんだと思います」
笹木さんが立ち上がって、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
笹木さんが出ていった。
一人になった。
なんでも記録になる。早食いも、五千年の木も、同じ一ページ。
コーヒーを一口飲んだ。
この店に来た人たちのことは、どこにも記録されない。何を話したかも、残らない。でも来た人は、来た日のことを、少し覚えているかもしれない。
それで十分だと、私は思っている。




