水曜日の午後
# 水曜日の午後
二時を少し回った頃だった。
平日の昼間は静かだ。豆を挽く音が、店の奥まで届く。
客は一人だけだった。カウンターの端に、五十代くらいの女性が座って、ゆっくりコーヒーを飲んでいた。常連ではない。
私はカウンターの奥で、グラスを磨いていた。
ドアベルが鳴った。
四十代くらいの男性が二人、入ってきた。アウトドア用のフリースを着ている。一人は大きなザックを背負ったままだった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンド二つください」
奥のテーブルに座った。ザックをようやく下ろして、椅子の横に立てかけた。
コーヒーを運んだ。二人は受け取って、すぐに飲んだ。
「やっぱり、ナイル川だよな」と一人が言った。
「ナイル」ともう一人が言った。「何が?」
「長さが、川じゃない感じがする」
「六千六百キロ」
「六千六百キロを、川って呼んでいいのかって思う」
「他に呼びようもないけど」
「でも、おかしくない? 日本列島が三本くらい並ぶ長さだよ」
もう一人が少し考えた。
「三本か」
「三本並べて、まだ余る」
「余るな」
「あれが川」
「あれが川」
二人がコーヒーを飲んだ。
グラスを磨きながら、聞いていた。
「アマゾンは長さじゃなくて水量だよな」と一人が言った。
「水量が、おかしい」
「世界の川の水量の五分の一を占める、って話があるよ」
「それ、本当?」
「今調べたら、二位以下を全部足してもアマゾンの方が多い、だってさ」
「二位以下を全部足しても」
「それだけの水が、一本の川に流れてる」
もう一人がしばらく黙った。
「アマゾンは対岸が見えないんだよ、河口付近は」
「見えない」
「川なのに、対岸が見えない」
「海が流れてる感じ、って言った人がいたな」
「うまいな、それ」
「でしょ。でも本当にそんな感じなんだよ」
「行ったの?」
「昔、一回だけ」
「いいな」
「川というか、空間だった。水が流れてる空間」
カウンターの端の女性が立ち上がって、静かに会計をして帰っていった。
「バイカル湖もそういう話に近い気がする」ともう一人が言った。
「バイカルは深さだよな」
「深さが、湖じゃない」
「一千六百メートル」
「一千六百」
「海の平均水深より深い」
「湖なのに、海より深い」
「しかも、あの透明度で」
「透明度がまたおかしい」と一人が言った。「四十メートル先まで見える」
「四十メートル」
「四十メートル下が、見える」
「それだけ透明な水が、一千六百メートルの深さで溜まってる」
二人がしばらく黙った。
「でもバイカルで一番おかしいのは」と一人が続けた。「地球上の液体淡水の、二割があそこにある、ってことだと思う」
「二割」
「湖一個で、地球の淡水の二割」
「その湖が、シベリアにある」
「シベリアにある」
「何でシベリアなんだろうな」
「知らないけど、シベリアにある」
もう一人が笑った。
「理由を聞いたって、地形と断層の話になるだけだよな」
「なるけど、なんか、釈然としない」
「しないな」
「シベリアの、あんな場所に、そういうものがある」
「そういうものが、ある」
私はグラスを棚に戻した。釈然としない、というのは正直な言葉だと思った。
「マリアナ海溝って、結局、誰も見てないよな」と一人が言った。
「見てないな。有人潜水艦が数回、底まで行ってるだけで」
「一万メートルだよ」
「一万」
「エベレストを逆さにして沈めて、まだ余る」
「余る」
「あの暗さと水圧の中に、エベレストより深い穴がある」
「地球って、やっぱりおかしい」と一人が言った。
「おかしい」ともう一人が笑った。「でも、そのおかしいのが好きなんだよな」
「好きなんだよな」
二人がコーヒーを飲み終えた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
ザックを背負い直して、二人は出ていった。
静かになった。
私はカウンターを拭いた。
釈然としない、という言葉が残っていた。理由がわかっても、納得できないことがある。
巨大なものには、そういうところがあるのかもしれない。説明がつくのに、釈然としない。
コーヒーを一口飲んだ。
水曜日の午後。二人分の熱が、カップに少し残っていた。




