火曜日の午後
# 火曜日の午後
三時を過ぎた頃だった。
春の午後はまだ明るい。窓から差し込む光が、カウンターの端まで届いている。
店内には笹木さんが一人、窓際の席で文庫本を読んでいた。今日は珍しく窓の外をよく見る日で、本を読むというよりは、光の中に座っている、という感じだった。
ドアベルが鳴った。
高校生が三人、入ってきた。男子が二人、女子が一人。制服のまま、鞄を肩にかけている。
「いらっしゃいませ」
「あ、こんにちは」と女子が言った。
三人はカウンターに並んで座った。以前テスト前に来ていた三人だった。テストが終わっても来るのか、と思ったが、口には出さなかった。
「ブレンドを」と背の高い男子が言った。
「高校生がブレンド頼むなよ」ともう一人の男子が言った。
「うるさい、好きなんだから」
「俺もブレンドで」
「お前もブレンド頼んでいるじゃないか」
「ミルクティーください」と女子が言った。
三人分を用意しながら、聞くともなく聞いていた。
「あのさ」と背の高い方が言った。「三峡ダム、ヤバくない?」
「ヤバい」ともう一人がすぐ言った。「あの水の量、意味わかんない」
「全長二キロだよ、堤防が」
「二キロ」
「二キロって、どのくらいかわかる? 駅から学校まで、だいたい」
「あの距離がダムってこと?」
「そう。で、高さが百八十五メートル」
「百八十五」女子が言った。「何階建て?」
「六十階くらい」
「それが水をせき止めてるの?」
「せき止めてる」
「こわ」
コーヒーを出した。三人がそれぞれ受け取った。
「三峡ダムって、満水になると地球の自転が遅くなるって聞いたことある」と女子が言った。
「それ本当なの?」
「わかんない。でもそういう話がある」
「水の重さで?」
「赤道から遠いところに水が集まると、コマの回転が遅くなるのと同じ原理らしい」
「地球がコマ」背の高い男子が言った。「スケールがおかしい」
「おかしいけど、本当にそういうことが起きてるらしいよ」
「何秒遅くなるの?」
「〇・〇〇何秒、みたいな話だと思う。ほとんどわからないくらい」
「わかんないじゃん」
「でも、遅くなってるんだよ。人間が作ったもので、地球の自転が変わった」
三人がしばらく黙った。
笹木さんが本から目を上げた。窓の外を見て、また本に戻った。
「ダムといえば」ともう一人の男子が言った。「黒部ダムも相当だよね」
「黒部は高さだけなら世界クラスだよ」
「高さ百八十六メートルだっけ」
「そう。三峡とほぼ同じ高さなのに、規模が全然違う」
「人間の数が違うから」
「いや、それだけじゃなくて、あの地形だよ。北アルプスの、あんな谷間に作ったのが」
「どうやって作ったの、あれ」
「人力だよ、ほぼ」背の高い男子が言った。「資材を運ぶ道もなかったから、まず道を作るところから始めて」
「道がないところに道を作って、ダムを作った?」
「そう。死者も出た。百七十人以上」
女子が「百七十人」と繰り返した。
「今の安全基準だったら作れないかもしれない、って話もある」
「じゃあ今は作れないの?」
「今の技術では作れるけど、今の基準では許可が下りないかもしれない、っていう意味で」
「すごいのか、やばいのか」
「両方だよ」
私はカウンターを拭きながら、聞いていた。
「万里の長城も似た話じゃない?」と女子が言った。「人海戦術で、死んだ人を壁の中に埋めたとか」
「それ、都市伝説らしいよ」
「え、違うの?」
「壁の中から人骨は出てないって。でも工事で死んだ人が大量にいたのは本当で、近くに埋葬された」
「それも十分ヤバいじゃん」
「十分ヤバい」
「でも万里の長城って、一本の壁じゃないの知ってた?」と背の高い男子が言った。「時代によって別々に作られた壁が、いくつもあって、それをまとめて万里の長城って呼んでる」
「一本じゃないの?」
「一本じゃない。全部つながってるわけじゃなくて、途切れてるところもある」
「宇宙から見えるって話は?」
「あれも嘘。幅が狭すぎて、宇宙からは見えない」
「なんか、知れば知るほど、思ってたのと違う」と女子が言った。
「でもそっちの方が面白くない?」ともう一人の男子が言った。「本当のことの方が」
女子が「そうかも」と言った。
笹木さんがまた本から目を上げた。今度はしばらく戻らなかった。
「ピラミッドもそうだよ」と背の高い男子が続けた。「奴隷が作ったと思われてたけど、最近の研究だと違うらしい」
「奴隷じゃないの?」
「労働者。賃金をもらって、食事も支給されて、けがをしたら医療も受けられた、という痕跡が出てきてる」
「ピラミッドを作ることが、仕事だったの?」
「そう。しかもけっこうプライドを持ってたらしい。自分たちのチーム名を壁に落書きしてたり」
「落書き」
「『ファラオの友人たち』とか、そういうチーム名で」
女子が笑った。
「なんかかわいい」
「かわいいよな」背の高い男子も笑った。「四千五百年前の落書きだよ」
「四千五百年前の人が、チームで張り合いながら仕事してた」
「でかいもの作るのって、楽しかったのかもしれないね」ともう一人の男子が言った。
三人がしばらく黙った。コーヒーを飲んだ。
「楽しかったと思う」と女子が言った。「絶対楽しかったと思う。完成したとき、どんな気持ちだったんだろう」
「見上げたんだろうな、できあがったの」
「見上げて、何て言ったんだろう」
「言葉が残ってないから、わからない」
「でも、何か言ったはずだよ」
私はグラスを棚に戻しながら、少し考えた。何か言ったはずだ、というのは、そうだと思った。
三人はコーヒーを飲み終えて、鞄を持った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「また来ます」と背の高い男子が言った。
「どうぞ」
「次はローマの水道の話をする予定なんで」ともう一人の男子が言った。
三人が笑いながら出ていった。
笹木さんが本を閉じた。
「賑やかな子たちですね」
「そうですね」
「ピラミッドの落書き、知りませんでした」
「私も初めて聞きました」
「四千五百年前の落書きが残ってるなんて」笹木さんが少し笑った。「今日の会話は残らないのに」
「そうですね」
笹木さんが立ち上がって、会計に来た。
「ローマの水道、楽しみにしてます」
「聞こえてましたか」
笹木さんが帰った。
一人になった。
でかいものを作るのって、楽しかったのかもしれない。あの男子が言ったことが、頭に残っていた。
完成したとき、見上げた人たちがいた。何千年も前に。何を言ったかは誰も知らない。でも、何か言った。
そういうことを、高校生が火曜の午後に話していった。




