金曜日の午後
# 金曜日の午後
金曜日の午後三時。店内には二組の客がいた。
窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、二十代前半くらいの男性が二人。スーツ姿で、一人はネクタイを緩めている。
私はカウンターの奥で、静かに豆を袋詰めしていた。
「いや、マジでキツかった」ネクタイを緩めた方が、ぐったりした様子で言った。
「お疲れ」
「五日間、ずっとあれだぜ」
「五日前だと入社前じゃないか」
「入社式は来週の月曜日だよ」
「大変だったな」
「大変とかいうレベルじゃない」
私は手を動かしながら、何気なく聞いている。
「朝、何時からだったんだっけ?」
「六時」
「六時?」
「そう。六時に集合して、まず掃除」
「掃除?」
「会社の周り、全部掃除するの。ご近所の人におはようございますって挨拶しながら」
「へえ」
「で、掃除が終わったら、朝礼」
「朝礼か」
「ただの朝礼じゃないんだよ。全員で、社訓を叫ぶの」
「叫ぶ?」
「叫ぶ。『我々は、常に感謝の心を持ち』みたいなやつを、大声で」
私は、少し驚いた。
「それ、毎朝?」
「毎朝。しかも、声が小さいと、やり直し」
「やり直し?」
「そう。『もっと大きな声で!』って言われて、また最初から」
「キツいな」
もう一人の男性が、同情するように頷いた。
「で、朝礼が終わったら?」
「研修」
「研修って、何するの?」
「色々。でも、メインは『自分と向き合う』みたいなやつ」
「自分と向き合う?」
「そう。自分の弱さを認めて、それを乗り越えるみたいな」
「ふーん」
「で、一人ずつ前に出て、自分の弱さを発表するの」
「発表?」
「そう。『私の弱さは、すぐ諦めることです』みたいな感じで」
「へえ」
「で、それに対して、みんなが『大丈夫!』とか『頑張れ!』とか叫ぶの」
私は、思わず手を止めそうになった。
「叫ぶんだ」
「叫ぶ。めっちゃ叫ぶ」
「疲れそうだな」
「疲れるよ。声、枯れたもん」
笹木さんが、本から目を上げてこちらを見た。私は小さく首を傾げる。
「他には?」
「あとね」ネクタイを緩めた方が続けた。「グループワークがあって」
「グループワーク?」
「そう。五人一組で、課題に取り組むの」
「どんな課題?」
「例えば、『感謝の心を、どう表現するか』みたいな」
「抽象的だな」
「抽象的でしょ。で、それをグループで話し合って、発表する」
「発表も?」
「発表も。しかも、寸劇形式で」
「寸劇?」
「そう。『感謝の心』を、演技で表現するの」
私は、思わず笑いそうになった。寸劇。
「それ、恥ずかしくない?」
「恥ずかしいよ。めっちゃ恥ずかしい」
「でも、やるんだ」
「やらされる。『恥ずかしいとか言ってる場合じゃない! 本気で取り組め!』って」
「厳しいな」
「厳しいよ」
二人は、コーヒーを飲んだ。
「あとさ」ネクタイを緩めた方が、声を潜めた。
「うん」
「夜、部屋に戻ってからも、課題があるの」
「夜も?」
「そう。『今日の気づき』を、レポートに書くの」
「レポート?」
「そう。原稿用紙三枚」
「三枚?」
「三枚。毎日」
「キツいな」
「キツいよ。一日中、研修やって、夜も書かないといけないんだぜ」
「寝る時間ある?」
「ギリギリ。十二時くらいまで書いて、朝六時起きだから」
「それ、五日間?」
「五日間」
もう一人の男性が、深くため息をついた。
「お前、よく耐えたな」
「耐えたっていうか、耐えるしかなかった」
「そっか」
「でもさ」ネクタイを緩めた方が、少し弱々しい声で言った。
「うん」
「俺、ついていけてないんだよね」
「ついていけてない?」
「うん。みんな、すごく熱心にやってるんだけど、俺、なんか冷めちゃって」
「冷めちゃった?」
「そう。『感謝の心』とか『本気で生きる』とか言われても、ピンとこないっていうか」
「まあ、分かる」
「分かる?」
「分かるよ。俺も、そういうの苦手だもん」
ネクタイを緩めた方が、少し安心した顔をした。
「だよな」
「だよ」
「でもさ、周りはみんな、涙流して『気づきました!』とか言ってるんだよ」
「泣くの?」
「泣く。めっちゃ泣く」
「へえ」
「で、『私、変わります!』とか叫んでる」
「すごいな」
「すごいよ。でも、俺、そこまで感動できなくて」
「うん」
「なんか、俺、この会社、合わないのかなって思っちゃった」
私は、静かにコーヒーを淹れ始めた。
もう一人の男性が、真剣な顔で言った。
「でもさ」
「うん」
「お前、その会社、入りたかったんだろ?」
「入りたかった」
「だったら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「でも」
「でも、じゃなくて」
もう一人の男性が、優しく続けた。
「研修って、たぶん、最初だけだよ。そういうの」
「そうかな」
「そうだと思う。会社によっては、新人研修だけ、ああいう感じのところもあるって聞くし」
「本当?」
「本当。で、配属されたら、普通に仕事するんじゃない?」
「そうだといいんだけど」
「大丈夫だよ」
ネクタイを緩めた方が、少し元気を取り戻した。
「ありがとう」
「いいよ」
「でもさ、もし、配属されてからも、ああいう感じだったら?」
「その時は、その時だよ」
「その時は?」
「転職すればいい」
「転職?」
「うん。無理に続ける必要ないじゃん」
「でも、せっかく入った会社なのに」
「せっかくとか、関係ないよ。合わないものは、合わないんだから」
私は、コーヒーを二人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カウンターに戻ると、また会話が続いていた。
「でもさ」ネクタイを緩めた方が言った。
「うん」
「研修で、一つだけ良かったことがあって」
「何?」
「同期と仲良くなれた」
「ああ、それはいいな」
「うん。みんな、辛い思いしてるから、連帯感みたいなのが生まれて」
「分かる」
「で、夜、こっそり集まって、愚痴大会したり」
「それ、バレなかった?」
「バレてないと思う。みんな、部屋でレポート書いてることになってるから」
「良かったじゃん」
「うん。それがなかったら、多分、耐えられなかった」
もう一人の男性が、笑った。
「お前、意外と打たれ弱いよな」
「弱いよ。自覚してる」
「でも、そういうお前が、俺は好きだよ」
「ありがとう」
二人は、また笑った。
「でもさ」ネクタイを緩めた方が、真面目な顔で言った。
「うん」
「俺、この研修、意味あるのかなって思っちゃうんだよね」
「意味?」
「うん。大声で叫んだり、寸劇したり、それで本当に成長するのかなって」
「どうだろうな」
「分かんないよね」
「分かんない。でも」
「でも?」
「会社としては、意味があると思ってるんじゃない?」
「そうなんだろうけど」
「それに、中には、あれで変わる人もいるのかもしれないし」
「そうかな」
「そうだよ。人それぞれだから」
ネクタイを緩めた方が、少し考えた。
「確かに、同期の中には、すごく前向きになった子もいたな」
「ほら」
「でも、俺は、あんまり変わらなかった」
「それでいいんじゃない?」
「いいの?」
「いいよ。無理に変わる必要ないじゃん」
「そっか」
二人は、コーヒーを飲んだ。
「ねえ」ネクタイを緩めた方が言った。
「うん」
「お前の会社は、そういう研修、ないの?」
「入社前だから正確にはわからないけど、普通に、業務内容の説明とか、社内ルールの説明とかだけって聞いてる」
「いいな」
「まあ、それはそれで、つまらなかったけど」
「つまらないくらいでいいよ」
「そっか」
二人は笑った。
笹木さんが、会計を頼みに来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「若い子たち、大変そうね」笹木さんが小声で言った。
「そうですね」
「でも、頑張ってほしいわね」
「ええ」
笹木さんが帰った後、二人の会話は続いていた。
「じゃあ、次は配属だな」
「営業部希望」
「営業か」
「うん。どうなるか、分かんないけど」
「大丈夫だよ」
「本当?」
「本当。お前、人当たりいいし」
「そうかな」
「そうだよ。絶対、うまくいく」
「ありがとう」
ネクタイを緩めた方が、少し笑顔になった。
「なんか、元気出てきた」
「良かった」
「お前に話したら、楽になった」
「いつでも話していいよ」
「うん」
二人は、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「すみません、長居しちゃって」
「いえいえ」
「また来ます」
「お待ちしています」
二人が帰った後、私は一人になった。
研修。
大声で叫んで、寸劇をして、レポートを書く。
そういう会社もあるのか。
私には、縁のない世界だ。
でも、彼らにとっては、これから始まる社会人生活の第一歩だ。
辛い研修を乗り越えて、これから配属される。
うまくいくといいな。
そう思いながら、私はコーヒーを一口飲んだ。
金曜日の午後。
新人社員の嘆きと、友人の励まし。
そんな会話が、この店を通り過ぎていった。
私も、昔、新人だった頃があった。
広告代理店での、忙しい日々。
あの頃は、毎日が辛かった。
でも、乗り越えた。
彼も、きっと乗り越えられる。
そう信じて、私は静かに店を閉める準備を始めた。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
また来週も、誰かがこの扉を開けてくれる。
どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。
そんなことを思いながら、私は笑った。
金曜日の夕方。
また、一週間が終わる。
これも半分実話で、自分自身が参加したことがあります。
私のは2日間でしたけど、なかなか強烈でした。




