土曜日の午後
# 土曜日の午後
土曜日の午後二時。私は健太と二人で、開店準備をしていた。
「マスター、今日はいい天気ですね」
「ああ、春らしくなってきたな」
「そうですね」
看板を出して、店を開けると、すぐに四人組の客が入ってきた。
三十代後半くらいの夫婦と、小学一年生くらいの女の子、そして六十代くらいのおばあさん。女の子は、新しいランドセルを背負っている。
「いらっしゃいませ」
「あの、四人なんですけど」
「どうぞ、奥のテーブルへ」
「ありがとうございます」
四人は、奥のテーブルに座った。女の子は、ランドセルを膝の上に置いて、嬉しそうに撫でている。
「コーヒー二つと、ココア一つと、紅茶をお願いします」
「かしこまりました」
私はコーヒーを淋れ始めた。健太が横で見ている。
「入学式だったのかな」健太が小声で言った。
「みたいだな」
「ランドセル、新しいですもんね」
「ああ」
コーヒーとココアと紅茶を淋れながら、四人の会話が聞こえてきた。
「ゆいちゃん、疲れた?」母親が尋ねた。
「ううん、全然」女の子が元気に答えた。
「そう? 良かった」
「ランドセル、重くなかった?」父親が聞いた。
「重くない。軽い」
「本当?」
「本当」
女の子は、ランドセルをまた撫でた。
「おばあちゃん、見て。ピカピカでしょ」
「ピカピカね」おばあさんが優しく笑った。「似合ってるわよ」
「本当?」
「本当よ」
私は、飲み物を四人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カウンターに戻ると、また会話が続いていた。
「ねえ、ママ」女の子が言った。
「何?」
「今日、お友達できた」
「え、本当?」
「本当。隣の席の子」
「そう。良かったわね」
「うん。名前、あやちゃんって言うの」
「あやちゃん」
「うん。可愛い名前でしょ」
「可愛いわね」
父親が、嬉しそうに笑った。
「ゆい、もう友達できたのか」
「うん」
「早いな」
「だって、あやちゃんが、『お友達になろう』って言ってくれたの」
「そうなんだ」
「うん」
おばあさんが、女の子の頭を撫でた。
「ゆいちゃん、良かったわね」
「うん」
「学校に通うのが楽しみね」
「楽しみ」
健太が、カウンターの奥で、じっと四人を見ている。
「いいですね」健太が小声で言った。
「何が?」
「家族で、お祝いしてる感じ」
「ああ」
母親が、女の子に尋ねた。
「ねえ、ゆい。先生、どんな人だった?」
「優しそうだった」
「そう?」
「うん。笑顔がいっぱいの先生」
「それは良かったわね」
「うん」
父親が、ココアを飲む女の子を見て、スマートフォンを取り出した。
「ちょっと、写真撮っていい?」
「いいよ」
「じゃあ、ランドセル背負って」
「うん」
女の子は、ランドセルを背負った。少し大きすぎるランドセルが、小さな体に似合っている。
「はい、チーズ」
「チーズ」
シャッターの音が響いた。
「可愛く撮れた」父親が嬉しそうに言った。
「見せて」母親が覗き込んだ。
「ほら」
「本当。可愛い」
「でしょ」
おばあさんが、少し目を潤ませていた。
「どうしたの、お母さん」母親が尋ねた。
「ううん、何でもない」
「泣いてる?」
「泣いてないわよ」おばあさんは、ハンカチで目を拭いた。「ただ、嬉しくて」
「お母さん」
「だって、ゆいちゃんが、もう一年生なんだもの」
「そうね」
「あっという間だったわね」
「本当に」
父親も、頷いた。
「そうだな。この間まで、赤ちゃんだったのに」
「赤ちゃんじゃないよ」女の子が言った。
「ああ、ごめんごめん」
「もう、一年生だもん」
「そうだな。一年生だな」
四人は、しばらく黙って、飲み物を飲んだ。
「ねえ、パパ」女の子が言った。
「何?」
「学校、一人で行ってもいい?」
「一人で?」
「うん」
「まだ、ママと一緒に行こうよ」
「でも、あやちゃん、一人で行くって言ってた」
「そうなの?」
「うん」
母親が、少し心配そうな顔をした。
「でも、ゆい。まだ道、覚えてないでしょ?」
「覚えてるよ」
「本当?」
「本当。あの角を曲がって、それから真っ直ぐ行くの」
「そうだけど」
「大丈夫だよ、ママ」
おばあさんが、優しく言った。
「でも、最初の一週間くらいは、ママと一緒に行きましょう」
「どうして?」
「だって、まだ心配だもの」
「心配?」
「そうよ。おばあちゃん、心配なの」
女の子は、少し考えた。
「じゃあ、一週間だけ」
「一週間ね」
「うん。それから、一人で行く」
「分かったわ」
父親が、笑った。
「ゆい、しっかりしてるな」
「もう、一年生だもん」
「そうだな」
四人は、また笑った。
私は、カウンターの奥で、静かに聞いていた。
入学式。
新しいランドセル。
初めての友達。
優しい先生。
家族の喜び。
温かい光景だった。
「ねえ、おばあちゃん」女の子が言った。
「何?」
「おばあちゃんも、昔、ランドセル背負ってた?」
「背負ってたわよ」
「どんなランドセル?」
「赤いランドセルよ」
「私と同じだ」
「そうね。同じね」
「おばあちゃんの時も、入学式あった?」
「あったわよ」
「どんなだった?」
「そうね」おばあさんは、遠い目をした。「おばあちゃんのお母さん、つまり、ひいおばあちゃんが、一緒に来てくれたわ」
「ひいおばあちゃん」
「そう。もう、亡くなっちゃったけど」
「そうなんだ」
「でも、優しい人だったわ」
「ゆいちゃんと、同じくらいの時、一緒に写真を撮ったのよ」
「写真、見たい」
「今度、見せてあげるわね」
「うん」
母親が、おばあさんの手を握った。
「お母さん、今日は来てくれて、ありがとう」
「いいのよ。孫の入学式、楽しみにしてたんだから」
「そうね」
「ゆいちゃん、おばあちゃんの宝物よ」
女の子が、嬉しそうに笑った。
「おばあちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
健太が、また小声で言った。
「マスター、いい家族ですね」
「ああ」
「こういうの、見てると、温かい気持ちになります」
「そうだな」
四人は、ゆっくりと飲み物を飲み終えた。
「そろそろ帰ろうか」父親が言った。
「うん」
「ゆい、疲れてない?」
「疲れてないよ」
「そう? じゃあ、帰りに公園寄ろうか」
「本当?」
「本当」
「やった」
四人は、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「あの」母親が言った。
「はい」
「写真、撮ってもらえますか?」
「もちろん」
私は、スマートフォンを受け取った。
「じゃあ、四人で」
四人は、店内で並んだ。女の子は、ランドセルを背負っている。
「はい、撮りますよ」
「はい」
シャッターを押す。
「もう一枚、いいですか?」
「どうぞ」
また、シャッターを押した。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
スマートフォンを返すと、母親が画面を確認した。
「いい写真」
「本当?」父親が覗き込んだ。
「本当。良かったわね、ゆい」
「うん」
女の子が、私に向かって言った。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。学校、頑張ってね」
「うん」
四人は、嬉しそうに帰っていった。
健太が言った。
「いいですね、入学式」
「そうだな」
「僕も、昔、あんな感じだったのかな」
「そうだろうな」
「覚えてないですけど」
「みんな、そうだよ」
私は、テーブルを拭きに行った。
女の子が座っていた椅子に、小さな温もりが残っている気がした。
土曜日の午後。
入学式を終えた一家が、この店を通り過ぎていった。
新しいランドセルを背負った女の子。
嬉しそうな両親。
目を潤ませるおばあさん。
温かい家族の時間。
そんな時間が、この店にはある。
私はコーヒーを一口飲んだ。
あの女の子も、いつか大人になる。
そして、自分の子供を連れて、この店に来るかもしれない。
その時、私はもういないかもしれない。
でも、この店は、残っているかもしれない。
誰か別の人が、コーヒーを淋れているかもしれない。
そんなことを考えながら、私は窓の外を見た。
春の日差しが、街を照らしている。
新しい季節。
新しい始まり。
土曜日の午後。
心温まる時間が、この店を通り過ぎていった。
また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。
そう信じて、私は静かに店を守り続ける。
『コーヒーハウス 雨宮』
小さな喫茶店に、色んな人が来る。
そして、色んな物語が生まれる。
それが、この店の日常だ。
入学式にランドセルを背負って行ったかどうか……




