木曜日の夕方
# 木曜日の夕方
木曜日の夕方六時。普段なら閉店の時間だが、今日は少し遅くまで開けている。
店内には、奥のテーブルに三人の客がいた。
一人は昨日見た、ナチュラルメイクの若い女性。そして、四十代半ばくらいの、軽薄そうな男性。派手なスーツを着て、髪を後ろで撫でつけている。三人目は、五十代くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。
私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。
「じゃあ、早速だけど」男性が言った。「年齢は?」
「二十二です」若い女性が緊張した声で答えた。
「二十二ね。若いね。いいよ、若いの」
「ありがとうございます」
「経験は?」
「ありません。初めてです」
「初めてか。まあ、それもいいよ。変な癖ついてないから」
男性は、ニヤニヤしながら言った。
私は、手を動かし続ける。
「お酒は?」
「あまり、強くないです」
「そう。まあ、無理に飲まなくていいよ。ソフトドリンクでもいいから」
「ありがとうございます」
「で、接客は好き?」
「はい。人と話すのは好きです」
「それは大事だね」
五十代の女性が、口を開いた。
「あなた、名前は?」
「あ、ゆかりです」
「ゆかり。本名ね」
「はい」
「じゃあ、源氏名、考えてきた?」女性が優しく尋ねた。
「はい。『レミ』にしようと思ってます」
「レミ?」男性が首を傾げた。
「はい」
「レミねえ」男性は、顎に手を当てて考えた。「悪くないけど、もうちょっとインパクトが欲しいな」
「インパクト?」
「そう。覚えやすくて、可愛い感じの」
「レミは、可愛いと思うんですけど」女性が言った。
「可愛いけどさ、ママ。もっとこう、キャッチーな方がいいじゃん」
「キャッチー?」
「そう」男性は、また考えた。「例えば、フルーツ系とか」
「フルーツ?」若い女性が戸惑った声を出した。
「そう。『モモ』とか『イチゴ』とか」
私は、思わず手を止めそうになった。
「イチゴ?」
「そう。可愛いじゃん。『イチゴちゃん、こっち来て』みたいな」
「でも」
「あ、リンゴもいいな。『リンゴちゃん』」
「リンゴちゃん」
「そう。覚えやすいし、可愛いし」
女性が、少し困った顔をした。
「でも、本人が『レミ』がいいって言ってるんだから」
「ママ、でもさ、商売なんだから、覚えてもらいやすい方がいいでしょ」
「それはそうだけど」
「ね。だから、『リンゴ』でどう?」男性が若い女性に聞いた。
「あの」若い女性が、小さな声で言った。「リンゴちゃんは、ちょっと」
「ちょっと?」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしい? なんで?」
「なんか、子供っぽい気がして」
「子供っぽくていいじゃん。お客さん、そういうの好きなんだから」
女性が、男性を制した。
「ちょっと、タケシ。本人が嫌だって言ってるでしょ」
「でもさ、ママ」
「本人の意見を聞きなさい」
タケシと呼ばれた男性は、少し不満そうな顔をした。
「じゃあ、他のフルーツは?」
「他のフルーツ?」
「『メロン』とか」
「メロン……」若い女性が、困った顔をした。
私は、カウンターの奥で、必死に笑いを堪えていた。メロン。
「あ、『サクランボ』もいいな」
「サクランボ……」
「長くない?」タケシが自分でツッコんだ。「じゃあ、『チェリー』」
「チェリー!」
「どう? 可愛いでしょ」
女性が、深くため息をついた。
「タケシ、あなたね」
「何?」
「もっと、本人の希望を聞きなさいよ」
「聞いてるじゃん」
「聞いてないでしょ。勝手に決めようとして」
「だって、『レミ』って、地味じゃん」
「地味じゃないわよ」
「地味だよ。もっとこう、パッとした名前の方がいいって」
若い女性が、また小さな声で言った。
「あの、私、『レミ』がいいんですけど」
「レミねえ」タケシが、また考え込んだ。「レミ、レミ、レミ」
「いい名前だと思います」女性が言った。
「まあ、悪くはないけどさ」
「悪くないでしょ。じゃあ、『レミ』で決まり」
「ちょっと待って」タケシが手を上げた。「せめて、『レミィ』にしない?」
「レミィ?」
「そう。語尾を伸ばす。『レミィちゃん』」
「レミとレミィ、そんなに変わらないでしょ」
「変わるよ。『レミィ』の方が、ちょっと洋風っぽいじゃん」
女性が、また深くため息をついた。
「もういいわ。本人、どっちがいい?」
「あの」若い女性が、少し考えた。「レミで、いいです」
「ほら、決まり」
「でも」タケシが食い下がった。
「でも、じゃないの」
「分かったよ」
タケシは、不満そうに椅子に座り直した。
私は、静かにコーヒーを淋れ始めた。
「他には、何か聞きたいことある?」女性が優しく尋ねた。
「あの、シフトとかは、どうなりますか?」
「週に何回くらい入れる?」
「三回くらいなら」
「三回ね。曜日は?」
「金曜と土曜は、入れます」
「金土、助かるわ。あと一日は?」
「水曜か木曜で」
「分かった。じゃあ、そのシフトで組むわね」
「ありがとうございます」
「時給は、最初は三千円から」
「三千円」
「そう。でも、指名がつくようになったら、もっと上がるから」
「はい」
タケシが、また口を開いた。
「あ、でもさ」
「何?」
「やっぱり、名前、考え直さない?」
「タケシ!」
「だって、『レミ』って」
「いい名前でしょ」
「まあ、いいけどさ。でも、フルーツ系の方が」
「しつこいわよ」
若い女性が、小さく笑った。
「大丈夫です。『レミ』で頑張ります」
「そう?」タケシが名残惜しそうに言った。「『ミカン』とかも可愛いと思ったんだけどな」
「ミカン」女性が呆れた声を出した。
「うん。冬っぽいじゃん」
「今、夏よ」
「あ、そっか」
私は、カウンターの奥で、また笑いを堪えた。ミカン。
コーヒーを三人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」女性が受け取った。
カウンターに戻ると、また会話が続いていた。
「じゃあ、レミちゃん」女性が言った。
「はい」
「明日から、来られる?」
「明日ですか?」
「ええ。金曜だから、忙しいのよ」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、七時に来てね」
「はい」
「最初は、私が横についてるから、安心して」
「ありがとうございます」
タケシが、最後にもう一度言った。
「でもさ、本当に『レミ』でいいの?」
「いいの」女性がきっぱり言った。
「分かった」
三人は、コーヒーを飲み終えた。
「じゃあ、レミちゃん、明日ね」
「はい。よろしくお願いします」
女性が会計に来た。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
「すみません、騒がしくて」
「いえ、大丈夫です」
女性は、少し笑った。
「あの人、うるさいでしょ」
「いえ」
「でも、悪い人じゃないのよ。ちょっと、センスがないだけで」
「そうですか」
「ええ。フルーツ系って」女性が笑った。
私も笑った。
「リンゴちゃん、インパクトありますね」
「でしょ? 私も、ないわって思ったのよ」
二人で笑った。
「でも、レミちゃん、いい子そうでしょ」
「そうですね」
「明日から、頑張ってくれるといいわ」
「きっと、大丈夫ですよ」
「そうね」
女性が帰り、タケシと若い女性も続いた。
「ありがとうございました」
「頑張ってください」
「はい」
若い女性は、緊張した顔だったが、少し笑顔も見せた。
三人が帰った後、私は一人になった。
リンゴちゃん。
イチゴちゃん。
メロンちゃん。
チェリーちゃん。
サクランボちゃん。
ミカンちゃん。
全部、却下された源氏名たち。
思い出すと、また笑いがこみ上げてきた。
でも、最終的に『レミ』で落ち着いて良かった。
あの女性なら、きっとうまくやれるだろう。
木曜日の夕方。
面接の様子を、聞いてしまった。
こういう世界もあるのだと、改めて思った。
私には縁のない世界だが、そこにも、人の営みがある。
フルーツっぽい名前にこだわる男と、それを諌める女性と、緊張しながらも自分の意見を言える若い女性。
色んな人がいる。
そして、明日から、『レミ』という名前の女の子が、新しい世界で働き始める。
頑張ってほしい。
そう思いながら、私は静かに店を閉めた。
窓の外を見ると、夜が来ていた。
また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。
どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。
そんなことを思いながら、私は笑った。
木曜日の夜。
また、面白い一日だった。
これはなんと半分実話です。
実際に横で聞いてた会話をアレンジしてます。




