水曜日の夕方
# 水曜日の夕方
水曜日の夕方五時。店内には二組の客がいた。
カウンターには常連の吉村さんが一人でスマートフォンを見ている。そして奥のテーブルには、二十代前半くらいの女性が二人。一人は派手なメイクで、もう一人はナチュラルメイク。
私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。
「ねえ、面接、いつだっけ?」派手なメイクの方が言った。
「明日の夜六時」
「緊張する?」
「めっちゃ緊張する」
「大丈夫だよ。あんた、可愛いんだから」
「そうかな」
「そうだよ」
私は手を動かしながら、何気なく聞いている。
「でもさ、何聞かれるんだろう」
「だから、昨日教えたでしょ。年齢と、経験と、あと源氏名」
「源氏名、決めた?」
「うーん、まだ迷ってる」
「え、明日なのに?」
「だって、難しいんだもん」
吉村さんが、ちらりとこちらを見た。私は何も聞いていないという顔をする。
「私の時はね」派手なメイクの方が言った。
「うん」
「最初、『さくら』にしようと思ったの」
「さくら?」
「そう。でも、ママに『ありふれてる』って言われて」
「ありふれてるんだ」
「ありふれてるらしい。で、結局『ルナ』にした」
「ルナ、可愛いじゃん」
「でしょ? 月って意味」
「知ってる」
私はコーヒーを淋れながら、静かに聞いていた。
「でさ、あんたは何がいいと思う?」ナチュラルメイクの方が尋ねた。
「えー、難しいな」
「難しいでしょ」
「あんたの本名、何だっけ?」
「ゆかり」
「ゆかり。じゃあ、そのまま『ゆかり』は?」
「それ、源氏名の意味ある?」
「ないね」
二人は笑った。
「じゃあ、『ユリ』とか」
「ユリ?」
「うん。花の名前、人気あるらしいよ」
「へえ」
「『モモ』とか『ラン』とか」
「ランって、蘭の花?」
「そう」
「なんか、高級そう」
「でしょ?」
私は、思わず口元が緩みそうになった。
「でもさ」ナチュラルメイクの方が言った。
「うん」
「花の名前って、覚えてもらいやすいの?」
「覚えてもらいやすいよ。だって、イメージしやすいじゃん」
「そっか」
「私の知り合いでね」
「うん」
「『キキ』って子がいるの」
「キキ?」
「そう。魔女の宅急便の」
「あー、あのキキ」
「でも、お客さん、みんな『ジジ』って呼んじゃうの」
「猫の方じゃん」
「そう。だから、本人、困ってた」
私は、思わず吹き出しそうになった。カウンターの奥で、肩が震える。
吉村さんが、また私を見た。私は必死に表情を抑える。
「じゃあ、アニメ系はやめた方がいいね」
「やめた方がいい」
「他には?」
「えーっとね」派手なメイクの方が考えた。「『レイナ』とか」
「レイナ?」
「うん。女王って意味」
「かっこいい」
「でしょ? でも、これも被りやすいらしい」
「被るんだ」
「うん。人気の名前は、どこの店にもいるから」
「難しいね」
私は、コーヒーを二人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カウンターに戻ると、二人の会話はまだ続いていた。
「ねえ、変わった名前の方がいいのかな?」
「変わった名前?」
「そう。印象に残るような」
「例えば?」
「『ティアラ』とか」
「ティアラ?」
「うん。王冠」
「なんか、キラキラしてるね」
「でしょ? でも、ちょっとやりすぎかな」
「やりすぎかも」
二人はコーヒーを飲んだ。
「私の先輩でね」派手なメイクの方が続けた。
「うん」
「『マリン』って子がいるの」
「マリン?」
「そう。海って意味」
「爽やかだね」
「爽やかでしょ。でも、お客さんに『じゃあ、俺はマウンテン』って言われるらしい」
「山?」
「そう。で、『二人で陸海空制覇しよう』って」
「おじさんギャグじゃん」
「そう。でも、笑わなきゃいけないから、大変だって」
私は、また吹き出しそうになった。陸海空制覇。
「じゃあ、『マリン』もやめとく」
「やめとこう」
「他には?」
「えーっとね」派手なメイクの方が、スマートフォンを取り出した。「ちょっと調べてみる」
「お願い」
しばらく、タップする音だけが聞こえた。
「あ、これどう? 『セレナ』」
「セレナ?」
「うん。静かなって意味らしい」
「いいじゃん」
「でしょ? 上品な感じ」
「上品だね」
「他には、『ノア』とか」
「ノア? それ、男の名前じゃない?」
「最近は、女の子でも使うらしいよ」
「へえ」
「あと、『エマ』とか『ミア』とか」
「横文字ばっかりだね」
「そうだね。和風の方がいい?」
「和風?」
「『小雪』とか『さくら』とか」
「小雪、いいかも」
「いいよね。清楚な感じ」
私は、静かにグラスを磨き続けた。
「でもさ」ナチュラルメイクの方が言った。
「うん」
「源氏名って、結局、お客さんが覚えやすい名前がいいんだよね?」
「そうそう」
「じゃあ、シンプルな方がいいのかな」
「シンプルか」
「『アイ』とか『メイ』とか」
「短い名前?」
「うん。二文字くらいの」
「それもいいかも」
二人は、また考え込んだ。
「ねえ」派手なメイクの方が言った。
「うん」
「面接で、他に何聞かれるんだっけ?」
「経験とか」
「経験ないけど、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。みんな最初は初心者なんだから」
「そうだね」
「それに、あんた、人と話すの得意じゃん」
「得意かな?」
「得意だよ。いつも、明るいし」
「ありがとう」
ナチュラルメイクの方が、少し安心した顔をした。
「でもさ、お酒、飲めないんだよね」
「え、飲めないの?」
「うん。弱くて」
「それ、大丈夫なの?」
「ママに聞いたら、ソフトドリンクでもいいって」
「そうなんだ」
「うん。お酒飲めない子も、いるらしい」
「へえ」
私は、新しいコーヒーを淋れ始めた。
「あとさ」派手なメイクの方が続けた。
「うん」
「服装、どうする?」
「服装?」
「そう。面接の時の」
「ワンピースでいいって言われた」
「色は?」
「黒か、紺がいいって」
「じゃあ、持ってる?」
「持ってる。この前買った」
「見せて」
ナチュラルメイクの方が、スマートフォンを操作して、写真を見せた。
「可愛い」
「でしょ?」
「これなら、絶対受かるよ」
「本当?」
「本当」
二人は笑った。
「ねえ、結局、源氏名、何にする?」派手なメイクの方が尋ねた。
「うーん」ナチュラルメイクの方が、真剣な顔で考えた。「『レミ』にしようかな」
「レミ?」
「うん。なんか、可愛くない?」
「可愛い。いいと思う」
「本当?」
「本当。『レミ』、覚えやすいし」
「じゃあ、決めた。『レミ』にする」
「おめでとう」
二人は、またコーヒーを飲んだ。
私は、カウンターの奥で、静かに聞いていた。
こういう世界もあるのか。
水商売。
私には縁のない世界だが、彼女たちにとっては、これから始まる新しい世界だ。
「ねえ、緊張してきた」ナチュラルメイクの方が言った。
「大丈夫だよ」
「でも、ちゃんとできるかな」
「できるよ。あんた、可愛いし、明るいし」
「ありがとう」
「それに、私がいるから」
「うん」
「何かあったら、いつでも連絡して」
「うん。ありがとう」
派手なメイクの方が、優しく笑った。
「私もね、最初、めっちゃ緊張したんだよ」
「そうなの?」
「そう。でも、やってみたら、意外と楽しくて」
「楽しいの?」
「楽しいよ。色んな人と話せるし」
「へえ」
「それに、お金も稼げるし」
「そうだよね」
「だから、あんたも大丈夫」
「うん」
二人は、嬉しそうに話し続けた。
吉村さんが、会計を頼みに来た。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
吉村さんが帰った後、店内には二人だけが残った。
「そろそろ行こうか」派手なメイクの方が言った。
「うん」
「明日、頑張ってね」
「うん。頑張る」
二人は会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
二人は、嬉しそうに帰っていった。
一人になった店内で、私はコーヒーを一口飲んだ。
源氏名。
レミ。
小雪。
ルナ。
キキと呼ばれるジジ。
マリンとマウンテンで陸海空制覇。
思い出すと、また笑いそうになった。
水商売。
私には縁のない世界だが、そこにも、人の営みがある。
夢を追う人、生活のために働く人、色んな人がいるのだろう。
彼女たちも、その一人だ。
明日、面接に受かるといいな。
そう思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。
水曜日の夕方。
また、新しい物語が、この店を通り過ぎていった。
『レミ』という名前の女の子が、明日、新しい世界に踏み出す。
頑張ってほしい。
そんなことを思いながら、私はグラスを片付けた。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。
どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。
そんなことを思いながら、私は静かに一日を終えた。




