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木曜日の午後

# 木曜日の午後


木曜日の午後二時。店内には二組の客がいた。


窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、三十代くらいの女性が二人。エプロン姿のまま来たらしく、料理教室帰りだろうか。


私はカウンターの奥で、静かにカップを磨いていた。


「いやあ、疲れたわ」奥のテーブルから声が聞こえてきた。


「ね、でも楽しかった」


「楽しかったけど、手が痛い」


「包丁の持ち方、間違ってたんじゃない?」


「そうかも」


私は手を動かしながら、何気なく聞いている。


「でもさ」一人が言った。「玉ねぎのみじん切り、あんなに早くできるとは思わなかった」


「先生、すごかったよね」


「プロは違うわ」


「私、10分かかった」


「私もそのくらい」


「先生、1分だったよね」


「ね、信じられない」


二人はコーヒーを飲んだ。


「でもさ、玉ねぎってさ」一人が声を潜めた。


「うん」


「涙出なくする方法、知ってる?」


「知らない。何?」


「冷蔵庫で冷やしておくと、涙出ないんだって」


「本当?」


「本当。硫化アリルっていう成分が、冷えると揮発しにくくなるらしい」


「へえ」


私は少し驚いた。そういうことか。


「他にもあるよ。口で息するとか」


「口で?」


「そう。鼻で息すると、涙が出る成分が鼻から入っちゃうから」


「なるほど」


「あと、ガムを噛みながら切るといいらしい」


「ガム?」


「唾液がいっぱい出るから、涙の方に行かないんだって」


「よく分かんないけど、試してみる」


笹木さんが、本から目を上げてこちらを見た。私は小さく笑う。


「そういえば」もう一人が言った。「卵って、新鮮な方がいいと思ってたんだけど」


「うん」


「ゆで卵は、古い方が剥きやすいんだって」


「え、そうなの?」


「そう。新しい卵だと、白身が殻にくっついちゃうの」


「へえ」


「だから、ゆで卵作る時は、一週間くらい置いた卵の方がいいらしい」


「知らなかった」


「私も先生に聞いてびっくりした」


私は新しいコーヒーを淹れ始めた。卵の話は、初めて聞いた。


「あとね、パスタ茹でる時」


「うん」


「塩を入れるのって、なんでか知ってる?」


「味つけ?」


「それもあるけど、麺がくっつかなくなるんだって」


「そうなの?」


「あと、茹で上がる温度が高くなる」


「温度?」


「塩を入れると、沸点が上がるの。だから、早く茹で上がる」


「へえ、科学的」


「でしょ? 料理って、科学なんだって先生が言ってた」


「確かに」


笹木さんが、また私を見た。私は頷く。確かに、料理は科学だ。


「そういえば」一人がふと思い出したように言った。


「何?」


「肉を焼く時、強火でサッと焼くと、肉汁が閉じ込められるって言うじゃない」


「うん、聞いたことある」


「あれ、実は嘘らしいよ」


「嘘?」


「そう。肉汁が閉じ込められるとかないんだって」


「じゃあ、なんで強火で焼くの?」


「表面をカリッとさせて、香ばしくするため」


「そうなんだ」


「肉汁は、どうやっても出ちゃうらしい。だから、焼いた後に少し休ませて、肉汁を落ち着かせるのが大事なんだって」


「なるほど」


私はコーヒーを二人のテーブルに運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


「あの」一人が言った。「すみません、聞こえてましたか?」


「少しだけ」私は笑った。


「恥ずかしい」


「いえ、面白いお話でした」


「料理の話、好きなんですか?」


「ええ。コーヒーも料理の一種ですから」


「確かに」


私はカウンターに戻った。


二人の会話は続く。


「ねえ、天ぷらって、なんでサクサクになるか知ってる?」


「知らない」


「水分が蒸発して、その穴が空気で満たされるから」


「へえ」


「だから、衣に水をたくさん入れすぎると、ベチャッとなるの」


「なるほど」


「冷水を使うのも、グルテンが出にくくするためらしい」


「グルテン?」


「小麦粉のタンパク質。これが出すぎると、固くなっちゃうんだって」


「料理って、奥深いのね」


「ね」


私は静かに聞きながら、グラスを磨き続けた。


「あとね、カレーは一晩寝かせると美味しくなるって言うでしょ」


「うん」


「あれも、科学的に説明できるんだって」


「どういうこと?」


「一晩置くと、スパイスの香りがオイルに移って、全体に馴染むの」


「へえ」


「それから、野菜から出た甘みが、全体に行き渡る」


「だから美味しくなるんだ」


「そう。でも、夏場は危ないから、ちゃんと冷蔵庫に入れないとダメらしい」


「ウェルシュ菌ってやつ?」


「そうそう」


笹木さんが会計を頼みに来た。


「ごちそうさま。面白い話だったわ」


「聞いてましたか」私は笑った。


「聞いちゃった。勉強になるわね」


「そうですね」


「私も今日、カレー作ろうかしら」


「いいですね」


笹木さんが帰った後、二人の会話はまだ続いていた。


「そういえば、お米って」


「うん」


「研ぐ時、最初の水はすぐ捨てた方がいいんだって」


「なんで?」


「最初の水で、ぬかの匂いを吸っちゃうから」


「へえ」


「だから、最初はサッと洗って、すぐ捨てる。それから、ゆっくり研ぐの」


「そうなんだ。知らなかった」


「私も」


「でも、最近、無洗米使ってるから、関係ないけど」


「あー、私も」


二人は笑った。


「ねえ、チャーハンって、なんでパラパラにならないか分かる?」


「火力?」


「それもあるけど、ご飯が温かいとダメなんだって」


「え、冷たい方がいいの?」


「そう。冷やご飯の方が、パラパラになりやすい」


「なんで?」


「ご飯が冷えると、デンプンが変化して、くっつきにくくなるらしい」


「へえ」


「だから、チャーハンは、残りご飯で作るのが正解なんだって」


「なるほど」


私は少し驚いた。確かに、冷やご飯の方が美味しい気がする。


「あとね、トマトは」


「うん」


「冷蔵庫に入れない方がいいらしい」


「え、そうなの?」


「味が落ちるんだって。常温保存の方が美味しいまま」


「知らなかった。ずっと冷蔵庫に入れてた」


「私も」


「じゃあ、今日から常温で」


「でも、夏は危ないかもね」


「そっか」


二人はまたコーヒーを飲んだ。


「料理って、知れば知るほど面白いわね」


「ね。なんか、科学の実験みたい」


「でしょ?」


「今日の教室、また行きたいな」


「私も」


「次は何だっけ」


「魚のさばき方」


「うわ、難しそう」


「でも、できるようになりたい」


「そうね」


二人は嬉しそうに話している。


やがて、二人も会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「あの、マスターは料理されるんですか?」一人が尋ねた。


「少しだけ。自炊はしますよ」


「じゃあ、コーヒーに合う料理とかありますか?」


「そうですね」私は少し考えた。「チョコレートケーキとか」


「定番ですね」


「ええ。でも、意外とチーズも合うんですよ」


「チーズ?」


「特に、ブルーチーズ」


「へえ、試してみます」


「ぜひ」


二人が帰った後、私は一人になった。


玉ねぎを冷やすと涙が出ない。


ゆで卵は古い卵の方が剥きやすい。


パスタの塩は、沸点を上げる。


肉汁は閉じ込められない。


カレーは一晩で馴染む。


チャーハンは冷やご飯で。


トマトは常温保存。


料理は、科学だ。


コーヒーも、科学だ。


温度、時間、粒度、抽出速度。


全部、計算できる。


でも、それだけじゃない。


経験と、勘と、少しの愛情。


それが、料理をもっと美味しくする。


私はコーヒーを一口飲んだ。


今日も、いいコーヒーが淹れられた。


科学的に正しいかどうかは、分からない。


でも、美味しい。


それでいい。


木曜日の午後。


料理の話が、この店を通り過ぎていった。


そして、少しだけ、お腹が空いた。


今夜は、カレーにしようか。


一晩寝かせた、科学的に美味しいカレーを。


そんなことを思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。


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