水曜日の午後
# 水曜日の午後
水曜日の午後四時。店内には三組の客がいた。
カウンターには常連の吉村さんが一人でスマートフォンを見ている。窓際には老夫婦。そして奥のテーブルには、二十代くらいの女性が三人。旅行会社のパンフレットを広げている。
私はカウンターの奥で、静かに豆を挽いていた。
「ねえ、モロッコってどこだっけ?」奥のテーブルから声が聞こえてきた。
「アフリカよ。北の方」
「へえ、アフリカなんだ」
「でもヨーロッパに近いから、ヨーロッパっぽい雰囲気もあるらしいわよ」
「そうなんだ」
私は手を動かしながら、何気なく聞いている。
「あ、知ってる? スペインとモロッコの間って、すっごく狭いんだよ」一人が言った。
「どのくらい?」
「14キロくらい。泳いで渡れるくらい」
「泳げないわよ」
「いや、実際に泳いで渡る人いるらしいよ」
「危なくない?」
「危ないけど、ヨーロッパに行きたい人が渡るんだって」
「切実な理由があるのかしら」
吉村さんが、ちらりとこちらを見た。私は小さく頷く。
「あとね」別の一人が言った。「ロシアとアメリカも、めちゃくちゃ近いんだよ」
「え、そうなの?」
「ベーリング海峡って知ってる? あそこ、4キロしか離れてない」
「4キロ? 近!」
「でも、そこに日付変更線があるから、片方は今日で、片方は昨日なの」
「時間旅行みたい」
「だよね。4キロ移動したら、一日進むとか戻るとか」
私はコーヒーを淋れながら、少し考えた。4キロで一日。不思議な話だ。
「じゃあ、誕生日に行ったら、二回誕生日できるってこと?」
「できるかもね。でも、寒いよ」
「寒いのは嫌だ」
三人は笑った。
「そういえば」一人がパンフレットをめくりながら言った。「オーストラリアって、でかいよね」
「うん、大陸だもんね」
「ヨーロッパより大きいんだって」
「え、本当?」
「本当。でも、人口は2500万人くらいしかいない」
「少ない!」
「東京都の二倍くらいしかいないの。あんなに広いのに」
「なんで?」
「砂漠だらけだから」
「あー、そっか」
私は窓際の老夫婦にコーヒーを運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
カウンターに戻ると、三人の会話は続いている。
「ねえ、南米で一番大きい国ってどこだと思う?」
「ブラジルでしょ」
「正解。じゃあ、ブラジルって、何語?」
「え、スペイン語じゃないの?」
「違うの。ポルトガル語なんだって」
「なんで?」
「昔、ポルトガルの植民地だったから」
「へえ。じゃあ、南米で唯一ポルトガル語?」
「そう。周りの国は全部スペイン語だけど、ブラジルだけポルトガル語」
「孤立してるな」
「でも、人口が一番多いから、ポルトガル語話者も世界で二億人以上いるんだって」
「すごい」
私は少し驚いた。ポルトガル語が二億人。知らなかった。
「あ、面白い話ある」一人が興奮気味に言った。
「何?」
「バチカン市国って、世界で一番小さい国でしょ」
「うん」
「どのくらい小さいと思う?」
「えー、分かんない」
「東京ドームくらい」
「東京ドーム?」
「そう。0.44平方キロメートル。歩いて一周できるの」
「国なのに?」
「国なのに。でも、独自の軍隊もあるし、通貨もあるし、ちゃんとした国」
「変な感じだな」
吉村さんが、会計を頼みに来た。
「面白い話してるね」
「ええ」
「俺も世界一周したいな」
「されたらどうですか」
「金がないんだよ」吉村さんは笑った。
吉村さんが帰った後、三人の会話はまだ続いていた。
「ねえ、オランダって、海より低い土地があるって知ってる?」
「え、どういうこと?」
「海面より低い場所に、街があるの」
「溺れちゃうじゃん」
「だから、堤防で守ってるんだって。堤防がなかったら、海の中」
「怖っ」
「でも、そこに百万人以上住んでるらしいよ」
「なんでそんなとこに?」
「土地がないからじゃない?」
「だよね、オランダって小さいもんね」
「でも、干拓技術がすごくて、海を埋め立ててどんどん土地を作ってるの」
「すごいな」
私は新しいコーヒーを淋れた。海より低い土地。想像できない。
「あとね、アイスランドって国」
「うん」
「火山がすごく多いんだって。百以上ある」
「百?」
「そう。しかも活火山」
「危なくない?」
「でも、その火山のおかげで、温泉がいっぱいあるの」
「へえ」
「首都のレイキャビクとかも、地熱でずっと暖房してるらしい」
「エコだね」
「火山と共存してる感じだよね」
「でも、噴火したら?」
「噴火したら、街が灰だらけになるって。実際、2010年に噴火した時、ヨーロッパ中の飛行機が飛べなくなった」
「聞いたことある」
「あの火山、名前が言えないんだよね。エイヤフィヤトラヨークトル」
「無理」
「絶対覚えられない」
三人は笑った。
「そういえば」一人がパンフレットを指差した。「エジプトって、砂漠の国だよね」
「うん」
「でも、ナイル川沿いには、緑がいっぱいあるんだって」
「へえ」
「ナイル川がないと、エジプト全部が砂漠になっちゃうの」
「じゃあ、川一本で国が成り立ってるんだ」
「そう。古代エジプトも、ナイル川のおかげで文明ができたって」
「川、大事だな」
私はコーヒーを三人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「すみません、うるさかったですか?」一人が申し訳なさそうに言った。
「いえ、全然」私は笑った。「面白いお話でした」
「聞いてたんですか」
「少しだけ」
「恥ずかしい」
「いえ、勉強になりました」
カウンターに戻ると、老夫婦が会計を頼んできた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「若い子たちは、元気でいいねえ」
「そうですね」
老夫婦が帰った後、三人の会話はまだ続いていた。
「ねえ、どこに行きたい?」
「うーん、迷うな」
「モロッコもいいし、オーストラリアもいいし」
「アイスランドも捨てがたい」
「全部行きたい」
「お金ないけどね」
「そうだった」
三人は笑った。
「じゃあ、まず近場で」
「近場って?」
「韓国とか台湾とか」
「それもいいね」
「そこで旅行の練習して、いつか世界一周する」
「いいね、それ」
「決まり!」
三人は嬉しそうにパンフレットをたたんだ。
「マスター、お会計お願いします」
「はい」
会計をしながら、一人が言った。
「マスターは、海外行ったことありますか?」
「少しだけ」
「どこですか?」
「ハワイと、あとは韓国」
「ハワイいいですね」
「ええ。コーヒー農園を見に行きました」
「へえ、仕事ですか?」
「趣味半分、仕事半分です」
「いいなあ」
三人は羨ましそうに言った。
「いつか世界中のコーヒー農園、見てみたいんです」
「素敵ですね」
「でも、遠いですよね、エチオピアとか」
「遠いですね」
「いつか行けるかな」
「行けますよ」私は笑った。「きっと」
「ありがとうございます」
三人が帰った後、私は一人になった。
スペインとモロッコが14キロ。
ロシアとアメリカが4キロ。
バチカンが東京ドームの大きさ。
オランダが海より低い。
アイスランドに百の火山。
エジプトがナイル川一本。
世界は、広い。
でも、面白い。
私はコーヒーを一口飲んだ。
コーヒーも、世界中から来ている。
ブラジル、コロンビア、エチオピア、インドネシア。
この小さなカップの中に、世界が詰まっている。
そう思うと、少しだけ、世界が近く感じた。
水曜日の午後。
地理の話が、この店を通り過ぎていった。
そして、少しだけ、旅に出たくなった。
窓の外を見る。
いつもの商店街。
でも、その先には、世界がある。
そんなことを思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。




