表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/62

火曜日の午後

# 火曜日の午後


火曜日の午後三時。店内には二組の客がいた。


窓際には常連の木村さんが一人、そして奥のテーブルには大学生が二人。以前にも来た卒論の学生と、初めて見る友人らしき男性だ。二人ともテキストを広げている。


私はカウンターの奥で、静かに豆を袋詰めしていた。


「いいか、まずpn接合から説明するぞ」奥のテーブルから声が聞こえてきた。


「うん、頼む」


「p型半導体っていうのは、シリコンにホウ素とかを混ぜて、正孔が多い状態にしたやつ」


「正孔?」


「電子が抜けた穴のことだ」


「穴?」


「そう。電子がいなくなった場所に、仮想的なプラスの粒子があると考える」


「仮想的な?」


「ああ。実際には穴なんだけど、プラスの電荷を持つ粒子として扱う」


私は豆を袋に詰めながら、何気なく聞いている。穴が粒子。なるほど、よく分からない。


「で、n型は逆で、電子が多い状態」


「それは分かる」


「pn接合は、この二つをくっつけたもの」


「くっつけるとどうなるの?」


「電子と正孔が、接合面で出会って、空乏層ができる」


「空乏層?」


「何もない層」


「何もない?」


「そう、キャリアがいなくなった領域」


木村さんが、こちらを見て首を傾げた。私も首を傾げる。


「それで、ここに順方向電圧をかけると」


「順方向?」


「p側にプラス、n側にマイナスをつなぐこと」


「うん」


「空乏層が狭くなって、電流が流れる」


「ふーん」


「逆方向だと、空乏層が広がって、電流が流れない」


「なるほど。それが何の役に立つの?」


「ダイオードの基本原理だよ。一方向にしか電流を流さない素子」


「へえ」


私はコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が、静かに響く。


「次、トランジスタいくぞ」


「まだあるの?」


「まだまだある」


「やばい」


「バイポーラトランジスタっていうのはな、npnかpnpの三層構造になってる」


「三層?」


「ベース、コレクタ、エミッタの三端子があって」


「三端子」


「ベースに小さな電流を流すと、コレクタとエミッタの間に大きな電流が流れる」


「なんで?」


「それがトランジスタの面白いとこで」


「うん」


「ベースに注入された少数キャリアが、コレクタに引き寄せられて」


「少数キャリア?」


「さっきの話、覚えてるか? p型の中の電子とか、n型の中の正孔とか」


「あ、あったね、そんな話」


「それが少数キャリア」


「ふーん」


私は木村さんにコーヒーを運んだ。


「ありがとう」木村さんが小声で言った。「マスター、分かる?」


「全然」


「俺も」


二人で苦笑いした。


「次、MOSFETいくぞ」


「もじゃっと?」


「MOSFETな。Metal Oxide Semiconductor Field Effect Transistorの略」


「長い」


「ゲート、ソース、ドレインの三端子があって」


「またスリーじゃん」


「ゲートに電圧をかけると、チャネルができる」


「チャネル?」


「電流の通り道」


「ふーん」


「で、そのチャネルを通ってソースからドレインに電流が流れる」


「なんか、川みたい」


「まあ、そういうイメージでもいい」


「ゲートが水門?」


「悪くない例えだな」


私はカウンターに戻り、グラスを磨き始めた。川と水門。その例えは少し分かった気がした。


「バイポーラとMOSFETの違いは?」


「バイポーラは電流で制御、MOSFETは電圧で制御」


「どっちがいいの?」


「用途による。バイポーラは高速で大電流向き、MOSFETは低消費電力向き」


「スマホとかはどっち?」


「ほぼMOSFET。CMOSって構成で」


「シーモス?」


「Complementary MOSの略。pチャネルとnチャネルのMOSFETを組み合わせたもの」


「また組み合わせる」


「そうやって複雑な回路を作るんだよ」


木村さんが、またこちらを見た。


「マスター、今度は少し分かったか?」


「いえ、全然」


「俺も」


二人でまた苦笑いした。


「ねえ」友人が言った。「これ、試験に全部出るの?」


「出る」


「やばいな」


「だから言ってるだろ、ちゃんと聞けって」


「聞いてるよ。でも、頭に入ってこない」


「どこから分からなくなった?」


「正孔」


「最初からじゃないか」


「うん」


二人は黙った。


私はコーヒーのおかわりを聞きに行った。


「いかがですか?」


「あ、お願いします」卒論の学生が顔を上げた。「すみません、うるさかったですか?」


「いえ、全然」


「勉強になりましたか?」学生が少し笑いながら言った。


「全然分かりませんでした」私は正直に答えた。


「ですよね」友人が言った。「俺も分かりません」


「お前が分からなくてどうするんだよ」


「だって、難しいんだもん」


私はコーヒーを二つ出した。


「あの」私は思わず言った。「一つだけ聞いていいですか?」


「はい、どうぞ」


「正孔って、本当に粒子なんですか?」


「いや、厳密には違います」学生が答えた。「電子が抜けた穴を、便宜上、粒子として扱うんです」


「便宜上」


「はい。そうすると、計算がしやすくなるんです」


「つまり、嘘をついてるわけですか?」


「嘘というか、モデル化というか」


「難しいですね」


「そうなんです。物理の世界って、実は全部モデルなんですよ」


「モデル?」


「現実を説明するための、便利な近似です。完全に正しいわけじゃないけど、使えるから使う」


「へえ」


「電子だって、本当は粒子なのか波なのか、どっちとも言えないんです」


「粒子でもあり、波でもある?」


「そうです。量子力学の話になりますけど」


「難しい」私は笑った。「コーヒーは液体だと思っていましたが、あやしくなってきました」


学生と友人が、声を上げて笑った。


木村さんも、カウンターから笑っている。


「マスター、面白いこと言うね」


「すみません、よく分からなくて」


「いや、本質的な疑問だと思います」学生が言った。「物事って、突き詰めると全部あやしくなるんですよ」


「そうですか」


「だから、科学は面白いんです」


「なるほど」


私はカウンターに戻った。


しばらくして、また勉強の声が聞こえてきた。


「気を取り直して、次は発光ダイオードいくぞ」


「LEDってやつ?」


「そう。pn接合に順方向電圧をかけると、電子と正孔が再結合して」


「また正孔」


「そこで光が出る」


「なんで光が出るの?」


「エネルギーが光として放出されるから」


「なんで?」


「電子が高いエネルギー状態から低い状態に移る時に、その差分が光になる」


「ふーん」


「これ、蛍光灯とは全然仕組みが違って」


「そうなの?」


「蛍光灯は、放電で紫外線を出して、それが蛍光体に当たって可視光になる」


「なんか遠回りだな」


「だろ? LEDの方がシンプル」


「でも、LEDって最近まで青色がなかったって聞いたけど」


「ああ、それは日本人がノーベル賞取った話だな」


「へえ」


「青色LEDができるまで、フルカラーの表示ができなかった」


「そうなんだ」


「赤と緑はあったのに、青だけ難しくて」


「なんで?」


「材料の問題で。窒化ガリウムっていう素材を使って、やっと実現した」


「へえ、すごいな」


私は思わず手を止めた。それは、聞いたことがある。青色LEDのノーベル賞。あれは確か、赤崎さん、天野さん、中村さんだったか。


少しだけ、分かった気がした。


「ねえ、その話、試験出る?」


「背景知識として知っといた方がいいな」


「なんか、半導体って、意外と身近なんだな」


「そうだよ。スマホも、テレビも、電子レンジも、全部半導体なしには動かない」


「このコーヒーメーカーも?」


「それはちょっと古そうだから、分からないけど」


私は苦笑した。うちのコーヒーメーカーのことを言っているのだろう。確かに、古い。


「でも、マスターのドリップは手動だから、半導体関係ないですよ」友人がこちらに向かって言った。


「そうですね。アナログです」


「アナログが一番ですよ」


「ありがとうございます」


木村さんが会計を頼みに来た。


「面白かったよ」


「勉強になりましたか?」


「全然。でも、面白かった」木村さんは笑った。「若い子は、難しいことを話すんだな」


「ええ」


「俺の頃は、居酒屋で野球の話ばかりだったけど」


「時代ですかね」


「そうだな。でも、熱心なのはいいことだ」


木村さんが帰った後も、二人の勉強は続いていた。


「集積回路いくぞ」


「まだあるの?」


「トランジスタを何億個も集積したのが、現代の集積回路」


「何億個?」


「ああ。最新のやつは、百億個以上入ってる」


「意味分かんない」


「一ミリメートルの中に、何千万個も入ってる」


「人間が作ったの?」


「人間が設計して、機械が作る」


「機械が機械を作るのか」


「そういうこと」


「なんか、怖いな」


「まあ、そういう時代だよ」


私はカウンターの奥で、また豆を挽いた。


何億個のトランジスタ。


正孔という名の穴。


電子でもあり波でもある粒子。


コーヒーも、突き詰めると何だか分からなくなるのかもしれない。


でも、美味しい。


それでいいと思っている。


「ねえ、そろそろ休憩しない?」


「あと、量子ドットの話だけ」


「まだあるの?」


「最先端の話だから、聞いといて損はない」


「先生、そこまで教えてくれるの?」


「教えてくれないけど、自分で調べた」


「真面目だな」


「お前が不真面目なんだよ」


二人はまた笑った。


やがて、二人は会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「また来ます。次は情報理論の予定です」


「ぜひどうぞ」私は笑った。「少しは分かるかもしれません」


「分かんないと思いますよ」友人が笑った。


「そうですか」


「でも、マスターのコーヒー飲みながらだと、なんか頑張れる気がします」


「それは良かったです」


二人が帰った後、私は一人になった。


pn接合。トランジスタ。MOSFET。LED。集積回路。


全部、よく分からない。


でも、正孔が穴だということと、青色LEDに日本人がノーベル賞を取ったことは、なんとなく覚えた。


少しだけ、得した気分だ。


私は自分のコーヒーを淹れた。


アナログの、手動ドリップで。


半導体がなくても、コーヒーは美味しい。


火曜日の午後。


難しい話が、この店を通り過ぎていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ