月曜日の午後
# 月曜日の午後
月曜日の午後三時。店内には二組の客がいた。
窓際には初めて見る四十代くらいの男性が一人、ノートパソコンを開いている。そして奥のテーブルには、三十代くらいの男女が一人ずつ。友人同士らしく、気さくな雰囲気だ。
私はカウンターの奥で、静かに伝票を整理していた。
「ねえ、一個面白いこと教えてあげようか」奥のテーブルから声が聞こえてきた。
「何?」
「0.9999、がずっと続く数って、1と同じなんだよ」
「え、違うでしょ」
「同じなんだよ、厳密に」
「でも、0.999って、どう考えても1より小さいじゃん」
「そう思うよね。でも、証明できるんだ」
「証明?」
「xを0.9999とする。で、10xは9.9999になるよね」
「うん」
「10xからxを引くと、9xになる。で、9.9999から0.9999を引くと9になる」
「うん」
「だから、9x=9で、x=1」
私は手を止めた。なんだか、騙されている気がする。でも、計算は合っている。
「え、なんか狐につままれた感じ」
「だろ? 数学って、時々こういうことをする」
「信用できないな」
「でも、正しいんだよ」
窓際の男性が、ちらりとこちらを見た。聞こえているのだろう。
「他にもある?」
「あるよ。円周率って、3.14159って続くよね」
「うん」
「あの中に、どんな数字の並びも必ず含まれてるって言われてる」
「どういうこと?」
「例えば、123456789って数字の並び、円周率のどこかに必ずあるってこと」
「本当に?」
「証明はされてないけど、今のところ見つかってる。自分の誕生日も、電話番号も、全部円周率の中にある可能性が高い」
「なんか怖いな」
「だろ? 無限に続く数だから、全ての有限の数列が含まれるって考えられてる」
私はコーヒーを淹れ始めた。円周率の中に、自分の誕生日が。
「じゃあ、私の銀行の暗証番号も?」
「あるかもね」
「セキュリティ的に大丈夫なのか」
「円周率を調べて暗証番号を盗む人はいないから大丈夫だよ」
二人は笑った。
私はコーヒーを窓際の男性に運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」男性は小声で言った。「面白いですね、あちらの会話」
「ええ」
「数学、好きなんですよ」
「そうなんですか」
「聞いていていいですか?」
「どうぞ」
私はカウンターに戻った。
奥の会話は続いている。
「素数って知ってる?」
「1と自分自身でしか割れない数でしょ。2、3、5、7、11とか」
「そうそう。その素数、無限にあるんだよ」
「まあ、そうだろうな」
「でも、大きくなるにつれて、出てくる間隔がバラバラなんだ」
「うん」
「で、素数がどこに現れるか、いまだに完全には予測できない」
「へえ」
「百万桁の素数とか、コンピューターで探してる人たちがいて」
「何のために?」
「実は、インターネットの暗号に使われてるんだよ」
「素数が暗号に?」
「ああ。大きな数を素因数分解するのが、コンピューターでも難しいから」
「つまり、素数が世界中の秘密を守ってる?」
「そういうこと」
「なんか、地味なのに重要だな、素数って」
「縁の下の力持ちだよ」
窓際の男性が、小さく頷いているのが見えた。
「他にある?」
「あるよ。無限には、大きさが違うものがある」
「無限に大きさ?」
「そう。自然数の無限と、実数の無限って、実は大きさが違うんだ」
「意味分かんない」
「自然数って、1、2、3って数えられるよね」
「うん」
「でも、0から1の間の実数って、数えられない」
「なんで?」
「どんなに頑張っても、全部数え上げることができないから」
「どっちも無限なのに?」
「そう。だから、数えられない無限の方が、数えられる無限より大きいって言える」
「頭がおかしくなりそう」
私は思わず口の端が緩んだ。
無限の大きさが違う。確かに、頭がおかしくなりそうだ。
「無限って、一種類じゃないの?」
「一種類じゃない。無限の無限乗くらい種類がある」
「無限の無限乗って」
「だから、無限って言葉自体が、実はすごく曖昧なんだよ」
「日常会話で使ってたけど、めちゃくちゃ深い言葉だったんだな」
「そういうこと」
窓際の男性が、もう一度こちらを見た。嬉しそうな顔をしている。
「ねえ、モンティ・ホール問題って知ってる?」
「なんだっけ」
「三つのドアがあって、一つの後ろに車があるゲームなんだけど」
「うん」
「一つ選んだら、司会者が残りの二つのうち、ハズレのドアを開けてくれる」
「うん」
「で、選び直していいって言われたら、変えるべきか変えないべきか」
「えー、どっちでも同じじゃないの? 二分の一でしょ」
「違うんだよ」
「え?」
「変えた方が、確率が三分の二になる」
「なんで? 残り二つなんだから、二分の一じゃないの?」
「最初に選んだ時点で、当たりの確率は三分の一だったよね」
「そうだな」
「司会者がハズレを開けても、最初の選択が当たりである確率は、三分の一のままなんだよ」
「どういうこと?」
「だから、もう一方のドアが当たりである確率は、三分の二になる」
「うーん」
「信じられないなら、百回やってみ。絶対、変えた方が勝率高い」
「なんか、騙されてる気がする」
「数学って、よく騙された気がするんだよ」
窓際の男性が、たまらなくなったように口を開いた。
「すみません」
二人が振り向いた。
「聞こえてしまって。モンティ・ホール問題、面白いですよね」
「あ、すみません、うるさかったですか?」
「いえ、全然。僕、数学教師なんです」
「え、本当ですか」
「ええ。授業でよく使う話題なんですよ、今の話」
「そうなんですか」
「生徒も、みんな最初は信じないんですが」男性は笑った。「実際にやってみると、確かに変えた方が勝率が高くて、みんな驚くんです」
「実際にやるんですか」
「ええ。トランプを使って、クラス全員でやると、盛り上がりますよ」
奥の二人は嬉しそうな顔になった。
「先生、じゃあ0.999がずっと続くのが1と同じっていうのも、本当ですか?」
「本当ですよ」男性が頷いた。「これも生徒に教えると、みんな納得できなくて」
「ですよね」
「でも、別の証明もあって。三分の一って、0.333がずっと続くでしょ」
「うん」
「それを三倍すると?」
「0.999がずっと続く」
「でも、三分の一の三倍は?」
「あ、1だ」
「そういうこと」
「あ、こっちの方が分かりやすい」
男性は嬉しそうに笑った。
「数学って、同じことでも、見方を変えると分かりやすくなるんですよ」
「なるほど」
「だから、面白い」
私はコーヒーのおかわりを淹れながら、静かに聞いていた。
見方を変えると分かりやすくなる。
コーヒーも、そうかもしれない。
同じ豆でも、挽き方、淹れ方を変えると、全然違う味になる。
「先生」奥のテーブルの一人が言った。「数学って、何の役に立つんですか? よく生徒に聞かれません?」
「よく聞かれますよ」男性は笑った。「でも、僕はこう答えるんです」
「何て?」
「数学は、世界の見え方を変える道具だって」
「道具?」
「ええ。円周率の話も、素数の話も、無限の話も、知らなくても生きていけます」
「そうですよね」
「でも、知ってると、世界がちょっと違って見える」
「ちょっと違って?」
「夜空の星の数を見て、無限について考えたり。スーパーの特売を見て、確率を考えたり」
「なるほど」
「そういう楽しみ方ができるようになる。それが数学の一番の価値だと、僕は思ってるんです」
奥の二人は、感心したように頷いた。
私も、カウンターの奥で、小さく頷いた。
知ると、世界が違って見える。
コーヒーも、同じかもしれない。
豆の産地や焙煎の違いを知ってから飲むのと、何も知らずに飲むのとでは、同じコーヒーでも少し違って感じる。
「先生、授業、面白そうですね」
「そうですか。生徒たちは、そう思ってくれてるといいんですが」
「絶対思ってますよ」
「ありがとうございます」
男性は照れたように笑った。
奥のテーブルの二人が、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「また来ます。今日、すごく面白かった」
「こちらこそ」
二人が帰った後、数学教師の男性もコーヒーを飲み終えた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「静かでいいお店ですね」
「ありがとうございます」
「こういう店で、数学の話が聞けるとは思いませんでした」
「私も勉強になりました」私は正直に言った。
「何か、面白いと思いましたか?」
「無限に大きさがあるという話が、一番引っかかりました」
「ああ、カントールの話ですね」男性は嬉しそうに言った。「気になったら、調べてみてください。もっと面白いことがありますよ」
「そうします」
男性が出て行った後、私は一人になった。
0.999がずっと続くと1。
円周率の中に、全ての数列。
素数が世界の暗号を守っている。
無限にも大きさがある。
モンティ・ホール問題の三分の二。
全部、よく分からない。
でも、なんだか、世界がさっきより少し広く感じる。
私はコーヒーを一口飲んだ。
数学教師の言葉を思い出す。
知ると、世界が違って見える。
確かに、そうかもしれない。
月曜日の午後。
数字の不思議が、この店を通り過ぎていった。




