火曜日の夕方
# 火曜日の夕方
火曜日の夕方五時。店内には三組の客がいた。
窓際には常連の木村さん、カウンターには吉村さん、そして奥のテーブルには高校生が三人。制服姿で、教科書やノートを広げている。
私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。
「やばい、全然分かんない」奥のテーブルから声が聞こえてきた。
「どれ?」
「この数学。解説読んでも意味不明」
「ああ、これ難しいよね」
私は手を動かしながら、何気なく聞いている。
「もう無理。捨てる」
「捨てるな捨てるな」
「でも、こんなの本番出ないでしょ」
「出るかもよ」
「やめてよ」
三人の笑い声が聞こえた。
「ねえ、休憩しない?」一人が言った。
「まだ三十分しか経ってないよ」
「え、まだ三十分?」
「うん」
「嘘でしょ。一時間くらい経った気がする」
「それ、全然集中してないってことじゃん」
吉村さんが、こちらを見て笑った。私も小さく笑い返す。
「お腹空いたな」
「さっきケーキ食べたでしょ」
「でも、もう消化された気がする」
「早すぎ」
私は新しいコーヒーを淋れ始めた。
「ねえ、英語のここ、教えて」
「どこ?」
「この長文」
「ああ、これ。えーっと」
しばらく静かになった。三人とも問題を見ているのだろう。
「分かった?」
「待って、今読んでる」
「ゆっくり読みすぎ」
「だって長いんだもん」
また笑い声。
「あ、分かった」
「本当?」
「うん。これってさ、要するに」
「要するに?」
「忘れた」
「は?」
「今、理解したんだけど、言葉にしようとしたら忘れた」
「役に立たない」
私は思わず笑いそうになった。カウンターの吉村さんも、肩を震わせている。
「ねえ、マジでさ」一人が真面目な声で言った。「私たち、受かるかな」
「受かるでしょ」
「でも、不安」
「みんな不安だよ」
「そうかな」
「そうだよ。A組の連中も、絶対不安だって」
「でも、あいつら頭いいじゃん」
「頭いい人の方が、不安なんだよ」
「なんで?」
「考えることが多いから」
「なるほど」
三人は黙って、また勉強に戻った気配がする。
ページをめくる音。
ペンが紙に走る音。
「あー、もうダメ」またすぐに声がした。
「早い早い」
「だって、この古文、意味分かんない」
「どれ?」
「これ」
「ああ、これは確かに」
「でしょ?」
「でも、頑張って読もうよ」
「頑張るって、どう頑張るの?」
「それは」
沈黙。
「分かんない」
三人で笑った。
窓際の木村さんが会計を頼みに来た。
「若いっていいねえ」
「そうですね」
「俺の頃も、あんな感じだったな」
「木村さんも受験されたんですか?」
「まあね。でも、落ちたけど」
「そうなんですか」
「浪人して、なんとか入った」
「大変でしたね」
「でも、あの頃は楽しかったな。友達と図書館で勉強して」
「図書館で」
「ああ。でも、ほとんど喋ってたけど」
私は笑った。今も昔も、変わらないのかもしれない。
木村さんが帰った後、高校生たちの会話は続いている。
「ねえ、大学入ったら、何したい?」
「サークル入りたい」
「どんな?」
「テニスとか」
「テニスできないでしょ」
「これから習う」
「大学で?」
「うん」
「遅くない?」
「大丈夫大丈夫」
また笑い声。
「私はバイトしたいな」
「バイト?」
「うん。カフェとか」
「いいね」
「でしょ?」
「お洒落なカフェ」
「そうそう」
吉村さんが、また私を見た。私は首を傾げる。
「ねえ」一人が言った。「でも、その前に受からないとね」
「そうだった」
「現実に戻された」
「ごめんごめん」
三人はまた勉強に戻った。
しばらく静かな時間が続く。
「あ、分かった」
「何が?」
「さっきの数学」
「本当?」
「うん。こうやって、こうするんだ」
「へえ」
「分かる?」
「全然」
「え、なんで」
「説明が下手」
「ひどい」
吉村さんが立ち上がって、会計に来た。
「高校生、微笑ましいね」
「そうですね」
「頑張ってほしいな」
「ええ」
吉村さんが出て行った後、高校生たちはまだ勉強を続けている。
「ねえ、そろそろ帰らない?」
「もう少し」
「あと十分」
「十分じゃ何もできないよ」
「でも、この問題だけ」
「分かった」
十分後。
「ねえ、まだやってる」
「あと一問」
「さっきもそう言ってた」
「本当にあと一問」
「信じない」
また笑い声。
結局、三人が会計に来たのは、それから三十分後だった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
「テスト終わるまで、ここで勉強したいんです」
「どうぞ、いつでも」
「やった」
三人は嬉しそうに帰っていった。
一人になった店内で、私は奥のテーブルを拭いた。
消しゴムのカスが、少し残っている。
教科書の跡がついたテーブル。
高校生たちの、必死な、でも楽しそうな時間。
受かるといいな。
そう思いながら、私はテーブルを拭き終えた。
火曜日の夕方。
若い子たちの笑い声が、まだ店内に残っている気がした。




