表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
107/121

土曜日のヤスデ

実話

# 土曜日のヤスデ


六月の土曜日の午後は、雨が一度止んで、また降り始めた。


窓ガラスに水滴が伝う。商店街の屋根からも、ぽたりぽたりと落ちている。


客が二人、ほぼ同時に入ってきた。


片方は三十代くらいの男性で、傘を折り畳んで勢いよく水気を切った。もう片方は四十代くらいの女性で、大きなトートバッグを肩にかけ直してから席を選んだ。二人は知り合いではないらしく、男性がカウンター席に、女性がその隣の窓際テーブルに座った。


「アイスコーヒーを」と男性。


「ホットのブレンドを」と女性。


私はそれぞれ準備しながら、二人の間に流れる会話とも呼べない静けさを聞いていた。


雨が少し強くなった。


「昨日、ヤスデだかムカデだかわからないやつが出まして」

静けさに耐えられなくなったのか、男性が言った。


特に誰かに向けたわけでもなさそうで、でも静かな店の中では全員に届く声だった。


「どちらでした?」と女性が聞いた。


「え?」


「ムカデかヤスデか、です」


「……わからないんです。夜中の二時に、二階のトイレで。暗くて、足がたくさんあって、もう思考が止まって」


「足の数で区別できますよ」


「区別する余裕が……」


「そうですよね」


女性はコーヒーを一口飲んだ。


「ムカデは体節ごとに二本、ヤスデは四本です。だから同じ体の長さでも、ヤスデの方が足が多く見える」


「なるほど」


「動き方も違います。ムカデは速い。ヤスデはのろのろしてる」


「のろのろしてました」


「じゃあ、たぶんヤスデです」


「ヤスデ」


男性がアイスコーヒーを一口飲んだ。


「ヤスデって、毒あるんですか」


「毒はないです。臭いを出すことはあります。驚かせると。でも噛まないし、人体への直接の害はほぼない」


「じゃあ安全なんだ」


「安全です」


「じゃあなんであんなに怖いんだろう」


女性が少し笑った。


「足の数だと思います」


「足の数」


「足の数」


私はカウンターを拭きながら、その会話を聞いていた。


怖さというのは、毒や危険性と関係ないことがある。足の数とか、動き方とか、出てくる時間とか。そういうもので決まる。


「どうやって二階まで来たんですかね」と男性が言った。


「外壁です、たいてい」


「外壁」


「ヤスデは土の中や落ち葉の下にいて、雨が続くと上に出てきます。壁を伝って、隙間から入ってくる」


「雨のせいか」


「雨のせいです」


男性が窓の外を見た。雨はまだ続いている。


「じゃあまた出るかもしれないですね」


「対策するなら、外壁の下の方に粉剤を撒くといいです。忌避成分が入ったやつ。殺すというより、寄せ付けない」


「殺虫剤じゃなくて忌避剤ですか」


「ヤスデには殺虫剤の成分が効きにくいものもあって、忌避の方が確実です。ピレスロイド系なら効くんですが、梅雨の時期は雨で流れるのが早いから」


「ピレスロイド」


「ピレスロイド系。市販の家庭用殺虫剤に多い成分です。蚊取り線香にも入ってます」


「蚊取り線香にも」


女性はトートバッグの中から何かを取り出して確認した。ラベルらしきものが見えた。


「ペルメトリンが入ってるやつです、これ。これを外壁の下に撒いておくと一定期間は効きます」


「お詳しいですね」


「趣味です」


趣味、と私は心の中で繰り返した。


「趣味で虫の対策を」


「昔、畑をやっていた親の手伝いをしていて。そのときに覚えました。ムカデは本当に厄介なんです、毒があるので。でもヤスデはそこまででもない」


「ムカデとヤスデを同列に見ていました」


「そうですよね。足がたくさんある、という点では同じに見えるのかも」


男性がもう一度アイスコーヒーを飲んだ。


「昨日は、トイレットペーパーで包んで流したんですよ」


「流せましたか」


「なかなかつまめなかったですが、なんとか流せました」


「次は粉剤を撒いておくと、安心できると思いますよ」


「安心。そうですね」


男性は少し表情が和らいだ。


「名前がわかると、対処が変わりますよね」


「変わります」


「昨日はただ怖いやつとしか思えなかったのに」


女性がコーヒーを飲み干した。


「怖いことは変わらないですけどね。知っていても、夜中の二時に出てきたら悲鳴を上げそうになる」


「上げそうになりましたよ」


「そうです、それが正しい反応です」


会計のとき、女性がトートバッグを整理しながら言った。


「ペルメトリン入りの粉剤、ホームセンターで買えますので」


「ありがとうございます」


二人はほぼ同時に店を出た。


知り合いではなかったはずだ。ドアが閉まって、また静かな雨の音だけが残った。


私はカップを片付けながら、ペルメトリン、と心の中で呟いた。

蚊取り線香にも入っている成分が、外壁の下に撒かれて、雨に流されながら、それでも少しのあいだ効いている。


名前がわかると対処が変わる、と女性は言った。


でも昨日の夜中の二時に、暗いトイレで足のたくさんあるものと向き合ったあの人が感じた怖さは、ヤスデという名前を知っても、たぶんあまり変わらないと思う。

そういうものなのかもしれない、とは思う。

わからないけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ