月曜日の小説家
100回記念にこれまでのタイトルと簡単な概要をまとめる予定です。これで読みたい話だけ選んで読めるようになるはず。
# 月曜日の小説家
月曜の午後だった。
梅雨の晴れ間が続いていた。昨日より雲が多く、窓から入る光は柔らかかった。蒸し暑さはあるが、風が少しあった。
二時過ぎに一人で来た男性は、三十代くらいだった。くたびれたシャツを着ていた。くたびれ方が仕事帰りではなく、もう少し前からくたびれていた感じだった。カウンターに座って、ブレンドを頼んだ。
コーヒーを出すと、しばらく黙って飲んでいた。何か考えている、というより、何も考えられない、という感じの黙り方だった。
「小説を書いているんですよ」
しばらくしてから言った。
「そうですか」
「新人賞はとってるんですけど、その後が続かなくて」
「凄いじゃないですか」
「いやぁそれほどでもなくて。文章は書けるんですよ。書き方はわかってる。でも何を書けばいいかが出てこない」
矢継ぎ早に言葉が出てくる。私はポットをコンロに戻した。
「アイデアが、ということですか」
「そうです。取っかかりがないと書き始められない。文章は機械みたいに出てくるんですけど、最初の一個がないと動かない機械で」
「それは困りますね」
「困ってます。締め切りもあるし。編集の人に言ったら、散歩しろと言われて。散歩してみたけど、何も浮かばなくて。ただ疲れて帰ってきた」
私は少し笑いをこらえた。
「今まではどうやって書いていたんですか」
「今まで」と男性が繰り返した。「今まで、か。それが、よくわからなくて」
「わからない」
「自分で考えたのか、どこかで聞いた話が元になってるのか。友達と話してるうちに思いついたものも、たぶんある。どこまでが自分のアイデアなのか」
「それは、誰でもそうじゃないですか」
男性が顔を上げた。
「そうですかね」
「話を聞いたり、何かを見たりして思いつく。そのきっかけがどこにあったかは、あまり関係ないような気がしますが」
「でも自分で考えたとは言えない気がして」
「最初から何もないところで思いつく人は、あまりいないんじゃないですか。種がどこかにあって、そこから育てるのが書く人の仕事だと思いますよ」
男性がコーヒーを一口飲んだ。
「もしかして慰めてくれてるんですか」
「さあ」
男性が少し笑った。初めて笑った。
聞き耳を立てていた笹木さんが、席を移動してきた
「失礼ですけど、小説を書かれているんですか」
「はい、こう見えて小説家なんです」
「どんなものを書かれているんですか」
「長編が多いです。登場人物が多めの」
「登場人物が多いと大変じゃないですか」
「大変です」と男性が素直に言った。「時間の流れが複雑になって」
「どういうことですか」私が聞いた。
男性がコーヒーを置いた。少し前のめりになった。話せる話題が出てきた顔だった。
「登場人物が多いと、それぞれが文章に出てこない間も生きてるんですよ。書いてない場面でも時間が経ってる。だから全員の時間を把握していないと、Aの場面とBの場面で時系列が合わなくなる」
「なるほど」
「読者には見えない部分なんですけど、書く側は全部計算してないといけない」
「それはどうやって整理しているんですか」
「私の場合、人物ごとの年表を作ります。この日この人はここにいた、というのを全員分。それと関係図。誰が誰にどういう態度をとるか、も書いておかないと」
「態度というのは」
「口調が変わってくるので。この人にはタメ口、この人には敬語、この人には敬語だけど少し砕ける、とか。その人の過去や立場によって全部違うから、複数いると単純じゃない」
笹木さんが興味深そうに聞いている。
「相関関係も全部入れるんですか」
「そうしないと書いてる途中でわからなくなるんですよ。登場人物が増えるほど組み合わせが増えるので」
「それをやっている人は」
「尊敬しますよ。本当に。長い話で登場人物が多くて、それぞれがちゃんとした人間に見える作品って、裏にものすごい量の整理があるはずで。表に出ない作業の方が多いんじゃないかと思う」
笹木さんが感心している。
「書店をやっていて、いろんな作品を見ます。でも作家さんの生の声は違いますね」
「読者には見えなくていいんですけどね。見えないのが正解だから」
「そうか」
私はコーヒーのお代わりを聞いた。男性だけ頷いた。
「アイデアの話でしたっけ」と笹木さんが言った。
「そうです。それが出なくて」
「今の話、面白かったですよ。登場人物がそれぞれ文章に出ない間も時間を経ている、という話」
「そうですか」
「それは小説の仕組みの話ですけど、何かに使えそうじゃないですか」
男性が少し黙った。
「どうですかね」
「わかりませんけど」と笹木さんが言った。「面白いと思ったので」
男性がコーヒーを飲んだ。しばらく何か考えていた。
「小説には使えないかもしれないけど、エッセイには書けるかもしれない」
「エッセイ」
「書く仕事の話とか、裏側の話とか。アイデアが自分のものかどうかわからないという話も含めて。小説じゃなくてもいいか、と思えてきた」
「それはよかった」
「よかったかどうかはわかりませんけど」
笹木さんが本を閉じた。会計をして、立ち上がった。
「面白い話でした」
一言だけ言って出ていった。
男性がコーヒーを飲み終えた。少しだけ残した。
「エッセイ、書いてみます。小説のアイデアが浮かんだわけじゃないけど」
「それはよかったです」
「よかったのかな」
男性が伝票を持って立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「またどうぞ」
ドアが閉まった。
窓の外の光が少し傾いていた。登場人物が文章に出ない間も時間を経ている。書いている間だけじゃなく、書いていない間も、何かは動いているのかもしれない。アイデアも、気がつかない間に少しずつ育っていることがあるのかもしれなかった。それがいつ出てくるかは、わからないけれど。




