天才になりたかった俺
油絵の具のツンとした匂いに、ザッザッと帆布を筆が走る音。
F150号の巨大なキャンパスに描かれた、美しい人物画。何度見ても惚れ惚れするその作品が、俺は心底嫌いだった。
優美な線の重なりと、配色の豊かさ。目を逸らしてもまた視線を吸い込まれるような魅力のあるその作品は、俺が羨んでやまない先輩のものだ。
松岡先輩は一個上の3年生で、俺は彼女の作品に惚れ込んで美術部に入った。
俺は中学の時、学内で1番絵がうまかった。周りからも教師からも褒められたおかげで、俺はすっかり井の中の蛙だった。
高校に入っても当たり前に1番になれると思っていた。自分には才能があると自負していた。
「あれ、来てたの」
一息ついた彼女が振り返る。集中していると周りの音が全く耳に入らなくなる人だ。本当に今俺がいることに気が付いたのだろう。
「はい。俺も高文連出すんで」
「そっか。がんばれ」
先輩の瞳に俺は映らない。先輩にとって俺は何者でもない、脅威でもない存在だから。
彼女の作品は、彼女が一年生の時からすごかった。
あらゆる賞を獲っているため、学校中に先輩の作品が飾られている。最初こそ惚れ込んで、先輩の背中を追いかけて追いかけて追いかけ続けた。
でもついぞ届かなかった。俺が10できるようになれば、先輩は100できるようになっている。初めから才能に溢れた作品を作っていたのに、ずっと成長し続けている。
いつしか俺は、先輩の作品を見ると嫌な感情が溢れ出すようになった。
俺がいくら努力したって敵わない。
彼女は天才なのだ。
⸻
「作品、進んでる?」
先輩が近くの机にコトンと缶のカルピスを置く。
俺はジュースがあまり好きじゃない。でも彼女はそれを知らないから、きっとカルピスが好きだと思っている。
「ありがとうございます。差し入れすか」
「うん。最近毎日頑張ってるみたいだから」
先輩は俺が見えていないと思っていた。ここ数週間、ずっと作品と向き合っていたことに気付かれてたとは。
「先輩はもう完成したんですか?」
「んー、あともうちょっとかな。ここがどうしても納得いかなくて」
まだ乾き切っていない油絵の上を先輩が指でなぞる。今回はあえてメディウムを使わなかったと言っていた。彼女なりのこだわりがあるのだろう。
「すごいですね。俺だったらもう完成にしちゃうのに」
「このあたりは自分が納得できるかだからね」
言いたいことはわかる。でも、圧倒的な完成度を前にストイックなことを言われてしまうと、どうしたって嫌な感情が溢れてしまう。
俺は先輩の作品から目を逸らして、ふと時計を見た。
「あー、もう7時だ。帰んなきゃすね」
俺はわざとらしく言って、筆を置いた。
「じゃ、失礼します」
カルピスを渋々持って部室を出ようとする。先輩がぽかんとしていた。
どうしてもこの場から逃げないと、色んなものをぶちまけてしまいそうだった。
「待って。私も帰る」
「え」
「もう時間ないもん、一緒に帰る」
「え」
混乱しているうちに、先輩が荷物を取って横に並んだ。
頭ひとつ分小さい彼女のつむじが見える。
やや透明感のある茶色の髪が視界に入り、「へ〜染めてんだな。意外」などと思った。
「いやなんで」
「一緒の方向だったよね?ダメなの?」
「ダメでは……」
ダメと言いたかった。もちろん先輩相手にそんな失礼なムーブはかませない。仕方なく溢れ出そうだったあらゆる感情をしまって、俺は腹を括った。
「帰りましょう」
「うん」
不意に笑顔を向けられ、思わず照れる。この人、憎いけど顔がかわいいから本能に逆らえなくて困る。
玄関を出ると雨が降っていた。俺はカバンから折りたたみ傘を取り出して広げる。
先輩に動く様子が見られないので、横を向いて確認した。傘は持ってませんけど?という顔をしていて、うっかり笑みが溢れてしまう。
「どうぞ」
「ごめん、傘持ってなかった」
そうでしょうねと心の中で呟く。
一つの傘で、肩が触れ合う距離で歩く。雨が傘に跳ね返る音がリズミカルで心地いい。
「違ってたら悪いんだけど」
先輩が唐突に口を開く。俺は雨音から彼女の声に集中した。
「私のこと嫌いでしょ」
心臓が大きく跳ねて、思わず一瞬立ち止まる。
歩いている先輩が傘から外れ、少しだけ濡れた。
やってしまった。こんなの、肯定しているようなものだ。
「……そんなわけないじゃないですか。先輩に憧れて部活入ったんだから」
「ねえ、バレバレ」
先輩が笑う。俺は彼女の顔が見れなかった。動揺して立ち止まり、目も見れないなんて確かにバレバレで、言う通りだと思った。
「私は」
先輩が、一つ間を置く。それからもう一度口を開いた。
「あなたが私や私の作品が嫌いでも、あなたの作品が好きだよ」
ハッとする。そうだ、先輩はこういう人だった。
誰が何と言おうと自分を持っている。俺は、そういう芯のある部分も羨ましくて仕方がなかった。
雨音が小さくなる。すっかり小雨になって、走れば帰れそうだ。
「ごめん急に。じゃ、止んできたから私行くね」
先輩が小走りで駆け出した。俺は最後まで彼女の顔を見れなかった。だからどんな表情で言っていたのかわからない。
駆ける背中が遠ざかっていく。
雲間から細い光が差し込んで、辺りが明るくなった。
俺は、彼女を引き止めることも追いかけることもできなかった。
⸻
高文連の結果は予想通りだった。
先輩が最優秀賞を受賞して、俺は入選だった。
去年は入選すらできなかったからこれでも進歩したし、俺と先輩以外の部員は誰も賞を獲得してない。
だからすごい方なのだ。なのに、素直に自分を褒めてやれない。
あれから何となく気まずくて、先輩とは顔を合わせないようにしていた。
高文連が終わってから久しぶりに部活に行く。先輩は、どんな顔をするだろうか。
「あれ、来たんだ。久しぶり」
「あっ……す」
ものすごくいつも通りだった。
何十通りか挨拶パターンを用意していたのに、全部無駄になってしまった。
先輩が鉛筆を置いてこちらに歩いてくる。俺の二歩先で止まると、俺の顔を見上げて言った。
「入選おめでとう」
まっすぐな瞳に射抜かれて、目が逸らせない。俺が認めてやれなかった成績を、憧れの先輩が認めてくれた。
指先が痺れる。目頭が熱くなる感覚があった。
「……ありがとうございます。先輩は最優秀賞、おめでとうございます」
「ありがとう」
今度は俯かなかった。彼女は、とても真剣な表情をしていた。嘘なんて微塵も感じなかった。
純粋に、俺の作品を認めてくれている。
「あなたがあなたの作品を愛せるまで、私はあなたに『良い作品だ』って言い続ける。だから、描くのやめないでね」
俺は黙って頷いた。一言でも発すると涙が溢れそうだった。
先輩が部室から出ていく。きっと、俺の泣きそうな顔を見て気を遣ってくれたのだろう。
目元を手で押さえる。頭も目も熱かった。
俺は天才じゃない。でも、努力はできる。今のまま努力を続ければ、きっと自分の作品を認めてやれる日が来る。
「すげえな」
嗚咽の合間で、小さな背中の先輩を思い出して少し笑った。




