夢に届かなかった私
「あの、山内選手ですよね!?」
今の学校に赴任して、陸上部を受け持つようになってからこの質問は数えきれないほど受けた。
私はこの質問が苦手だ。だって、過去の栄光は過去のものでしかないから。
「うん、今はただの先生かな。どうしたの?」
「指導をして欲しくて……!」
「顧問だからみんな指導するよ」
また放課後にね、と言ってやんわり距離を置く。生徒が残念そうにしているのは気付いていたが、私を見る輝かしい目線がとても耐えられない。
私は高校生の時、世界陸上の日本代表に選抜されていた。
高校生で世界陸上の選手に選ばれるのは非常に珍しいことだったから、あらゆるメディアから取材を受けた。その影響で、陸上をやっていて私を知らない人はいない。
私は、その時のことを思い出すのが好きじゃない。
だって、大会には結局出られなかったから。
過去の栄光は、過去でしかない。
⸻
「じゃあみんなちゃんとアイシングしてから帰る準備してね」
「はい!ありがとうございました!」
生徒たちのお辞儀を見守り、すっかり暗くなったトラックを見た。
言いつけを守らない生徒が1人、まだ練習しようとしている。
「渡辺さん。どうして部室に行かないの?」
「まだ練習できるんで」
彼女は私の顔を見ずに言った。
その時間は身体のケアの時間にあてろと言ったはずなのに、全く聞く耳を持たない。
渡辺詩織は高校1年生で、唯一私に“山内選手”と言わなかった子だ。
彼女の陸上成績は華々しい。中学時代にU16日本陸上競技選手権大会に出場し、見事3位入賞。
今年も既にU18に出場することが決まっており、日々練習に励んでいる。
はっきり言って、励みすぎているくらいだ。時間さえあれば個人練習をし、部活後も顧問の言いつけを守らずに練習をしようとする。オーバーワークだと言ってもいい。
⸻ああ、嫌な気持ちになる。
昔の自分を見ているようで、どうしたって彼女を無視することはできなかった。
「前も言ったよね。アイシングも立派な練習の一つだよ。走ることだけすればいいわけじゃない」
言い切ってから、強く言い過ぎたと少しだけ後悔する。彼女は相変わらず私を見ないまま口を開いた。
「自分の身体は自分でわかります。まだ大丈夫なんで」
どくりと心臓跳ねた。高校の時、同じことを恩師に言ったことがある。だが結局のところ、何もわかっていなかったのだ。
まだ子どもだった。だからこそ、大人が手荒く導かなければならない時もある。
「怪我したら大会出られなくなるんだよ」
「先生とは違います!だから放っておいてください!」
渡辺がこちらに振り返り、声を荒げて言った。私は言葉が出てこなかった。怒りとも、悲しみともつかない感情に飲み込まれて、動けなくなる。
バツが悪そうな顔をして、彼女はそのまま練習を再開した。私はしばらくその場で呆け、彼女を止めることなく立ち去った。
⸻
高校3年の夏。私は希望に満ち溢れていた。
世界陸上の日本代表に選ばれ、浮き足立っていた。
夢だった舞台に立てる。絶対に爪痕を残したかった。だから、私は練習をしすぎてしまった。
止めてくれた恩師の言葉を跳ね除け、私は練習を続けた。あの時の恩師の表情をいまだに忘れることができない。
初めは小さな痛みだった。休めば治るから気にしなかった。日本代表に選ばれたのに痛いなんて言えるわけがなかった。
それから段々普通の生活もままならなくなり、私は病院へ連れて行かれた。疲労骨折だった。大会まで、残り1週間を切っていた。
当然出場は中止。ドクターストップだ。私は病院から帰宅後、生まれて初めて大声をあげて泣いた。
後悔は尽きない。それから何度か再発して、骨が変形し、走ると必ず痛むようになってしまった。
私の選手生命は絶たれた。夢は弾けて消えた。色々な人を逆恨みした。どんなに自分に言い聞かせても、心が壊れてしまって誰かのせいにしないとやっていられなかった。
だから私は、同じ道を辿っている彼女を止めなければならない。強い言葉を使っても、多少力づくでも、必ず止めなければならない。
コンコンコンと、面談室の扉が控えめに叩かれる。どうぞと声をかけると、渡辺が気まずそうに中に入ってきた。
向かえの席におずおずと座る彼女を一瞥する。俯いているため目は合わない。
この間の態度を怒られると思っているのだろう。良くないことをした自覚はあるようだ。
「調子はどう?練習で困ってることはある?」
「ないです」
相変わらずこちらを見ようとしない彼女に、私は出来る限り優しい声色で尋ねる。
早くこの時間を終わらせて練習に行きたいのだろうなと、慌ただしく揺れる視線を見て思った。
室内に一瞬、沈黙が落ちる。私は口を開いた。
「左足、違和感あるでしょ」
彼女はハッと息を飲み、わかりやすく動揺した。口を開いては閉じ、何かを言いかけてやめる。うまく言葉にならないようだ。もしかすると、彼女なりに言葉を選んでいるのかもしれない。
「ないです」
「大会まであと1ヶ月だね。このままその違和感を放置するつもり?」
「……」
渡辺は悔しそうに唇を噛み締めた。まさか気付かれているとは思っていなかったのだろう。
気付かないはずがない。私は全く同じ経験をして、身体をダメにしてしまった側なのだから。
「病院に行きましょう」
「い、嫌です!」
「行きます。もう親御さんに許可は貰ってるから」
「なっ……なんでそんな勝手なこと!!」
彼女が机を思い切り叩く。私は彼女を睨みつけて言った。
「私とは違うんでしょ!?このまま私みたいに二度と走れなくなってもいいの!?」
見開いた彼女の瞳に涙が溜まる。私はもう一度静かに言った。
「もう二度と走れなくなってもいいの?」
彼女が俯く。大粒の涙がぼとりと机に落ちた。
「……嫌です」
「なら一緒に病院に行けるね?」
「はい」
静かに立ち上がり、渡辺は私の後ろを黙って付いてきた。
結果は、疲労骨折の初期段階だった。医者からは2週間練習を休めと言われた。大会には間に合う。だが、今の彼女には途方もなく長い時間に感じるだろう。
悔しそうな顔をする彼女に、私はあえて何も言わなかった。この経験は必ず今後に活きる。
未来は守られた。彼女は、この先も陸上を続けるだろう。
渡辺を車から下ろし、学校へと戻る道を走る。
赤信号で車を止めた時に、ふと窓の外に目を向けた。外周を走る生徒たちの声が、窓ガラスを越えてくぐもって聞こえてくる。
あの頃の私は、彼らのようにがむしゃらに走っていた。痛みをごまかしながら、誰にも弱音を吐けず、ただ前だけを見ていた。
車を発進させる。秋風が窓をかすめ、色づき始めた木々がゆっくりと後ろへ流れていく。
私はほんの少しだけ、過去の自分を救えたような気がした。




