結婚適齢期の恋
彼の部屋は、きれいすぎた。
生活の匂いがしない。
物が少ないわけじゃないのに、
どこか仮住まいみたいだった。
彼は、コップを二つ並べる。
同じ形、同じ透明度。
「どっちでもいいよ」
そう言う。
彼女は、右を取る。
理由はない。
最初から、話は早かった。
年齢。
仕事。
年収。
家族構成。
どれも隠さず、淡々と出てくる。
「結婚は、いつくらい考えてる?」
彼が聞く。
「タイミングが合えば」
彼女は答える。
曖昧な言い方だけど、意味ははっきりしている。
——条件が揃えば。
彼は頷く。
「合理的でいいね」
褒めているのか、測っているのか、わからない声。
食事は、静かに進む。
おいしいかどうかは、あまり重要じゃない。
話す内容の方が優先される。
「子どもは?」
「できれば」
「仕事は続ける?」
「状況次第」
短い返答が、テンポよく続く。
会話というより、確認作業に近い。
彼女は、ときどき自分の声が他人のものみたいに聞こえる。
感情が乗っていない。
でも、それでいいと思っている。
——必要なことだけでいい。
帰り際、彼が言う。
「効率いいよね、こういうの」
「何が?」
「無駄がない」
少しだけ笑う。
彼女も、同じくらいの角度で笑う。
その日の夜、彼からメッセージが来る。
「今日はありがとう。話しやすかった」
彼女は少し考えてから返す。
「こちらこそ」
それ以上は書かない。
何度か会ううちに、距離は縮まる。
と言っても、身体的な話じゃない。
生活の想定が、具体的になる。
「このエリアなら通勤しやすいよね」
「ローンは組めると思う」
「保険は見直した方がいいかも」
未来の話が、現実の数字で埋まっていく。
ある日、彼が言う。
「指輪、見に行く?」
軽い調子。
提案というより、確認。
彼女は少しだけ間を置く。
「うん、いいよ」
それが
“好き”
かどうかは、考えない。
店内は明るくて、静かだった。
ガラスケースの中に並ぶ輪が、同じ形に見える。
彼が値札を見る。
彼女も、同じように見る。
デザインより先に、
数字が目に入る。
「このくらいが妥当かな」
彼が言う。
彼女は頷く。
妥当、という言葉に違和感はない。
むしろ安心する。
試着する。
指に通したとき、
ほんの一瞬だけ、感覚が遅れる。
自分のものじゃないみたいに。
「似合うね」
彼が言う。
その言葉に、重さはない。
軽いわけでもない。
ただ、必要だから言っているような響き。
帰り道、彼女は指を見る。
外した後の、何もない場所。
跡も残っていない。
その夜、珍しく彼女の方からメッセージを送る。
「今日はありがとう」
少しだけ迷ってから送った一文。
すぐに既読がつく。
返信は、少し遅れて来た。
「こちらこそ。いい感じだと思う」
“いい感じ”
その言葉を、何度か頭の中で転がす。
いい、の基準がどこにあるのかは聞かない。
数日後。
彼の部屋で、書類を見ていたとき。
机の端に、別の紙が見える。
半分だけ、重なっている。
意図せず、目に入る。
名前。
女性の名前。
見覚えはない。
彼がキッチンから声をかける。
「何か飲む?」
「ううん、大丈夫」
目を逸らす。
紙を見なかったことにする。
でも、頭のどこかに残る。
「それ、気になる?」
戻ってきた彼が、軽く言う。
彼女は一瞬だけ固まる。
「いや、別に」
「前に君を紹介してもらった相談所で、先に会ってた人のやつ。
ちょっと手続き残っててさ」
あっさりした説明。
隠す様子はない。
彼女は頷く。
「そうなんだ」
それ以上は聞かない。
沈黙が落ちる。
「でもさ」
彼が続ける。
「別に君じゃなくてもよかったんだけどね」
軽く笑いながら言う。
冗談みたいな口調。
彼女は、反応が遅れる。
言葉の意味が、少し遅れて入ってくる。
「条件がちょうどよかったからさ」
彼は続ける。
「タイミングとか、いろいろ」
悪気はない。
むしろ、正直でいいと思っている顔。
彼女は、ゆっくりと頷く。
「そっか」
それだけ言う。
怒りはない。
悲しみも、少し遅れている。
ただ、ひとつだけはっきりする。
自分がやってきたことと、同じだ。
相手を見るとき、
どこかで計算していた。
ここまでなら大丈夫。
ここまでなら損をしない。
その視線で見られていた。
帰り道、風が少し強い。
髪が顔にかかる。
払う気にならない。
スマートフォンが震える。
彼からのメッセージ。
「今日はごめん。言い方悪かったかも」
彼女は画面を見る。
しばらく、そのまま。
やがて、短く打つ。
「大丈夫」
送信して、すぐに既読がつく。
それ以上は、来ない。
家に着いて、靴を脱ぐ。
整えずに、そのままにする。
部屋の中は、静かすぎる。
部屋の中は、静かすぎる。
靴を脱いだまま、揃えない。
そのまま、立ったまま。
スマートフォンを開く。
さっきのやりとり。
「大丈夫」
その一言。
指でなぞる。
消そうと思って、やめる。
ふと、思う。
あの人は、何も隠していなかった。
最初から、全部見えていた。
気づかなかったんじゃない。
見ないままにしていただけだ。
彼女は、画面を閉じる。
部屋の灯りは、まだつけない。
外からの光だけで、十分だった。




