初恋の終わり
部屋の電気を消しても、
カーテンの隙間から街灯が入り込む。
完全な暗闇にはならない。
その暗さをその時は、
好んでいたと思う。
大学に入って、最初にできた恋だった。
同じ講義を取って、
同じタイミングで欠伸をして、
同じように単位の心配をする。
それだけで、距離は縮まる。
彼は、よく話を聞く人だった。
遮らない。
否定しない。
「そうなんだ」と受け取る。
彼女は、少しずつ話すようになる。
家のこと。
昔のこと。
人に言わなかったことも。
「それ、しんどかったでしょ」
彼が言う。
ちょうどいい重さで、言葉が落ちる。
彼女は、その重さを信じた。
LINEは、よく続いた。
短い会話が、途切れない。
「今何してる?」
「課題やってる」
「えらいじゃん」
それだけで、安心できた。
ある日、彼が言う。
「今度、先輩に会わない?」
「先輩?」
「ちょっと世話になってる人。いい人だから」
軽い調子だった。
「顔出すだけでいいからさ」
断る理由はなかった。
彼が言うなら、大丈夫だと思った。
店は少し暗くて、音が大きかった。
彼の隣に座る。
向かいに、先輩。
視線が少し長い人だった。
会話は、普通だった。
名前を聞かれて、答えて、
どこの学部か、何年か。
彼は隣で、いつも通りに笑っている。
途中で、席を外す。
「すぐ戻るから」
そう言って、立つ。
戻ってきたとき、
少しだけ空気が変わっている気がした。
気のせいだと思った。
帰り道、彼は何も言わない。
いつもより、少しだけ静かだった。
「楽しかった?」
彼女が聞く。
「うん、まあね」
曖昧な返事。
それ以上は聞かない。
その夜、彼からの連絡は遅かった。
「ごめん、ちょっとバタバタしてた」
それだけ。
「大丈夫だよ」と返す。
それからも、会うことは続く。
変わらないように見えた。
でも、ときどき思い出す。
あの店の暗さ。
先輩の視線。
席を外した時間。
言葉にするほどの違和感じゃない。
ある日、彼の部屋に行く。
特別な理由はない。
「近いから」というだけ。
部屋は少し散らかっている。
生活の匂いがする。
机の上に、開いたノートパソコン。
画面はついたまま。
「飲み物取ってくる」
彼がキッチンに行く。
背中が見える。
彼女は椅子に座る。
何気なく、画面を見る。
いくつかの名前。
その中に、自分の名前。
一瞬、理解が遅れる。
スクロールの途中で止まった会話。
「あいつさ、こういうとこ可愛いよなw」
「でも重いわw」
「これどう返すのが正解?」
息が浅くなる。
指が動く。
スクロールしてしまう。
自分が送った言葉。
そのまま並んでいる。
その下に、返事。
「優しくしとけって」
「依存させたら楽だぞ」
「それネタになるわw」
音が遠くなる。
さらに、少し下。
「例の先輩、あいつ気に入ってるっぽい」
「マジ?じゃあ連れてけば?」
「いやでもさ…」
「お前、借りあるだろw」
「……まあな」
「顔出すだけでいいって言っとけよ」
「それで機嫌取れるなら安いわ」
指が止まる。
もう少し下。
「で、どうだった?」
「普通に狙いそうだったわ」
「お前もいたの?」
「いたけど、まあ…空気読んだ」
「草」
「ああいうの、断れないタイプだよな」
息を吸うのを忘れる。
キッチンの水の音。
やけに近い。
彼の足音。
戻ってくる気配。
画面から目が離せない。
後ろに、気配。
「……それ」
彼の声。
彼女は振り向かない。
「見るつもりじゃなかったんだよね」
責める声じゃない。
説明する声。
ゆっくり、顔を上げる。
目が合う。
何か言えばいいのに、言葉が出ない。
彼が言う。
「違うんだよ」
すぐに続ける。
「断れなかっただけでさ」
言葉が、落ちる。
「ほら、あの人にさ、いろいろ助けてもらってて」
軽い説明。
「顔出すだけでいいって言われてたし」
その言葉で、繋がる。
あの店。
席を外した時間。
戻ってきたときの空気。
全部が、一本になる。
彼女は、もう一度画面を見る。
並んだ言葉。
笑いの記号。
その中に、自分がいる。
彼が言う。
「傷つけるつもりはなかったんだよ」
彼女は、首を横に振る。
「ううん」
泣かない。
怒らない。
ただ、理解する。
守られなかったんじゃない。
最初から、ここに居場所はない。
「帰るね」
声は普通だった。
「送るよ」
「いい」
外に出る。
夜の空気が、少し冷たい。
スマートフォンが震える。
ポケットの中で、小さく。
取り出さない。
歩く。
足音だけが続く。
ふと、思う。
優しかったんじゃない。
選ばれていただけだ。
手放される側として。
立ち止まる。
空を見上げる。
完全な暗闇は、どこにもない。
でももう、
どの光も、信用できなかった。
もう、誰も信じない。




