カイト ― 生きる理由
若い女
「その女性は山を越え……
森を越え……
川を越えました。
ただ一つだけを胸に抱いて。
故郷へ帰ること。
母の手をもう一度握ること。
『おかえり』という言葉を聞くこと。」
頭目は腕を組み、
面白そうに笑う。
若い女
「ようやく村へたどり着いた時……
彼女が見つけたのは、
母親だけではありませんでした。」
若い女の声は揺るがない。
抑揚は一切変わらない。
その静けさに、
野盗が二人、
気づかぬうちに一歩後ずさる。
若い女
「そこにあったのは死体。
静まり返った大地。
人のいない家々。
そして……
まるで娘の帰りを待ち続けていたかのように、目を開いたままの母親でした。」
間。
若い女
「その若い女は痕跡を追いました。
ブーツの跡。
馬の蹄の跡。
焚き火の燃え残り。
踏み荒らされた道。
折れた枝……」
若い女はゆっくりと一歩踏み出す。
若い女
「何日も歩き続けました。
眠ることもなく。
食べることもなく。
ただ一つ――
故郷を墓場へ変えた男たちを見つけるために。」
野盗たちの表情が強張る。
互いに顔を見合わせる。
もう誰も笑わない。
若い女
「そして見つけた時……
彼らは笑っていました。
ちょうど、あなたたちのように。
何も知らずに。
ちょうど、あなたたちのように。」
口元に、
かすかな笑みが浮かぶ。
それはほとんど見えないほど小さい。
彼女はゆっくりと男たちを見上げる。
空気が変わる。
何かが震える。
最初は、
ごくわずかに。
息遣いのような振動。
頭目が眉をひそめる。
頭目
「……何だ?」
振動は次第に強くなる。
地面が。
石が。
焚き火の灰までもが、
かすかに震え始める。
野盗たちは不安げに顔を見合わせる。
誰にも何が起きているのかわからない。
沈黙。
凍てつく風が野営地を吹き抜ける。
馬でさえ後ずさる。
若い女は一歩踏み出す。
三人の野盗が慌てて刀を抜く。
若い女の指先が、
ほんのわずかに動く。
一人の野盗が宙へ弾き飛ばされる。
そのまま木へ激突する。
野盗2
「何だこりゃ――」
野盗たちは武器を手に一斉に襲いかかる。
若い女は動かない。
一歩たりとも。
そして、
静かに息を吐く。
まるで蝋燭の火を吹き消すように。
先頭の野盗が間合いへ踏み込み、
刀を振り上げる。
だが――
その身体が止まる。
刀は振り下ろされない。
時間が止まったわけではない。
身体だけが、
動けなくなっていた。
白目をむく。
見えない衝撃に打たれたように、
その場へ崩れ落ちる。
二人目の野盗が腕を掴もうとする。
若い女はわずかに首を傾ける。
指先が、
見えない糸をつまむように動く。
空気を裂く音。
――フルルルル……ン。
野盗は吹き飛ばされ、
自らの刀へと身体を貫かれる。
三人目が背後から迫る。
一歩も踏み切れない。
若い女はただ拳を握る。
その瞬間、
男の周囲の空気が激しく収縮する。
野盗は喉を詰まらせたような悲鳴を上げ、
耳から血を流して倒れる。
残った野盗たちはようやく後ずさる。
恐怖が広がる。
それでも二人が最後の突撃を仕掛ける。
叫び声で己を奮い立たせながら。
若い女は掌を地面へ向ける。
地面が脈打つ。
石が。
土埃が。
灰が。
鼓動のように震え始める。
彼女は誰にも触れず、
掌を振り下ろす。
その瞬間――
完全な円を描く衝撃波が爆発する。
二人の野盗は宙へ吹き飛ばされる。
数メートル先へ叩きつけられ、
意識を失う。
静寂。
本当の静寂。
立っているのは頭目だけ。
顔面は蒼白。
全身が震えている。
頭目
(息を切らしながら)
「お、お前は何者だ……
化け物め!」
最後の本能で刀を抜く。
刃が震えている。
若い女は静かに歩み寄る。
頭目の胸へ、
そっと二本の指を添える。
ただ、それだけ。
若い女
「母を捜していた者です。」
乾いた音。
叫びもない。
派手な爆発もない。
頭目の頭部が砕ける。
静かに崩れ落ちる。
まるで陶器を床へ落としたように。
次の瞬間、
張り詰めていた空気が消える。
何もなかったかのように。
若い女はカイトを見る。
少年は一度も動いていない。
縛られたまま。
微動だにせず。
声もない。
震えすらない。
彼女はゆっくりと歩み寄り、
カイトの前へしゃがみ込む。
少年の瞳を見る。
そして、
母親の亡骸へ目を向ける。
すべてを悟る。
若い女
「……ごめんなさい。」
優しく縄をほどく。
そして、
手を差し伸べる。
若い女
「生きたいなら……
私と来なさい。」
カイトはためらう。
やがて、
小さく、
泥に汚れ、
震える手を、
彼女の手へ重ねる。
二人は歩き始める。
数歩。
だが、
カイトは突然立ち止まる。
そして振り返ると、
母親のもとへ駆け戻る。
若い女は止めない。
カイトは母親の亡骸の前に膝をつく。
震える指で、
そっと懐を探る。
やがて、
冷たい小さな腕輪を握りしめる。
母と繋がる、
最後の形見。
それを母親の手首から外し、
胸へ強く抱き寄せる。
一言も発しない。
涙も流れない。
若い女は少し離れた場所で見守っている。
何も言わない。
もう、
言葉にできることなど、
何もなかったから。
***
太陽はまだ高く空にある。
ケイリンは、涼司が淹れたばかりの茶の湯気をゆっくり吸い込む。
ケイリン
「今日はいつもより苦いわね。」
涼司はわずかに頷く。
その通りだと言うように。
ケイリンは湯飲みの中で茶を静かに揺らし、
その水面を見つめる。
ケイリン
「お茶ってね……
いつも何かを語っているの。
収穫が厳しかったこともあれば……
淹れた人が考えすぎていることも。」
彼女は涼司へ短く視線を向ける。
涼司は答えない。
だが、
その沈黙は無ではない。
それが答えだった。
ケイリンは小さく息をつく。
かすかな笑みを浮かべながら。
ケイリン
「センのことが心配なのね。」
涼司は湯飲みに目を落とす。
指先にわずかに力が入る。
何も言わない。
それでもケイリンには伝わる。
ケイリン
「……あの子は、普通じゃない。」
沈黙。
やがて――
涼司は立ち上がる。
そして、
ケイリンの正面へ座る。
まるで無言で異を唱えるように。
ケイリンはため息をつく。
ケイリン
「あの子をあんな道へ進ませるわけにはいかない。」
涼司はゆっくりと目を伏せる。
手が手首の古びた腕輪へ伸びる。
母の形見。
ほんの一瞬だけためらう。
そして、
腕輪を外す。
その動作はゆっくりと。
まるで儀式のように。
ケイリンはすぐに目を見開く。
彼がそれを外す姿など、
一度も見たことがなかった。
その意味を悟る。
涼司は腕輪を二人の間、
卓の上へ静かに置く。
ケイリンから目を逸らさない。
重い沈黙が流れる。
ケイリン
「センは……
自分に牙があることを知らない狼よ。
(間)
そのことに気づいた日……
その牙を振るう。」
涼司は静かにケイリンを見つめる。
怒りもない。
悲しみもない。
あるのは、
揺るがない決意だけ。
やがて、
ゆっくりと立ち上がる。
そして、
手を差し伸べる。
掌を開いて。
かつて彼女が、
屍の中で膝をついていた幼い少年へ向けた、
あの時とまったく同じように。
ケイリンは動けない。
記憶が、
否応なく蘇る。
幼い少年。
流れなかった涙。
自ら差し伸べた一つの手。
あの日の自分の声が、
胸の奥で響く。
「生きたいなら……
私と来なさい。」
沈黙だけが、
静かに流れていく。




