岩壁
アサは必死にもがいている。
宙吊りにされたまま。
喉を締めつけられ。
指先は虚しく空を掻く。
日野は気を失い、壁際に倒れている。
アサ
(息を切らしながら、かすれた声で)
「ミナ……や……やめ……」
その時――
ドンッ!!
激しい衝撃。
ミナの身体が部屋の反対側へ吹き飛ばされる。
床へ叩きつけられる。
唐突な静寂。
すべてが止まる。
風が消える。
炎は穏やかに揺らめく。
家具は元の場所にある。
窓ガラスにも傷ひとつない。
まるで何も起こらなかったかのように。
まるで現実そのものが――
修復されたかのように。
アサの身体が落下する。
だが――
誰かの腕が彼女を受け止める。
アサは薄く目を開く。
視界が揺れる。
ぼやけている。
ひとつの影。
黒い姿。
冷たい鬼の面。
まるで――
人ならざるもの。
シェイド。
彼は苦もなくアサを支えている。
日野が苦しげにうめく。
ゆっくりと意識を取り戻していく。
日野
(弱々しく)
「ミ……ミナ……」
シェイドはアサを静かにソファへ横たえる。
正確に。
ほとんど優しいと言えるほど丁寧に。
そして立ち上がる。
ミナへ向かって歩いていく。
彼女は気を失っている。
身動き一つしない。
シェイドはその傍らで立ち止まる。
ためらっているようにも見える。
あるいは――
決断しているようにも。
やがて身をかがめる。
そしてミナを軽々と抱き上げる。
まるで何の重みもないかのように。
日野は這う。
半ば意識を失ったまま。
シェイドの脚にしがみつく。
弱々しく。
必死に。
日野
「頼む……」
声が震える。
日野
「娘を……」
シェイドは振り向きもしない。
ただ一度。
素っ気ない動きで振り払う。
日野は床へ崩れ落ちる。
なすすべもなく。
シェイドは扉へ向かう。
開く。
夜の闇が彼を飲み込む。
一言も発しない。
一度も振り返らない。
そしてミナを抱いたまま――
姿を消す。
日野
「ミナ……」
***
夜の静寂が神社を包んでいる。
信夫は布団の上で大の字になって眠っている。
いびきをかいている。
盛大に。
とてつもなく盛大に。
その隣で、センがゆっくりと目を開く。
信夫がひときわ大きないびきを響かせる。
その後、小さなくぐもった音が続く。
センはゆっくりとそちらへ顔を向ける。
セン
(小声で)
「……すごいな。」
彼は上体を起こす。
そしてわずかに顔をしかめる。
落下の痛みはまだ残っている。
センは立ち上がる。
そして外へ出る。
_
風が静かに吹いている。
山は深い闇に包まれている。
センは寺の裏手にある山の斜面まで歩いていく。
自分が落ちた場所だ。
彼は目の前にそびえ立つ山の広大な姿を見上げる。
背後で微かな物音がする。
センは振り返りもしない。
セン
「夜の散歩に付き合う準備はできてるか?」
数メートル後ろに涼司が立っている。
無言で。
じっと。
手にはすでにロープが握られている。
センはゆっくりと息を吐く。
そして疲れの滲む小さな笑みを浮かべる。
セン
「よし。」
***
朝日が神社を照らしている。
信夫は相変わらず眠っている。
昨夜とまったく同じ姿勢で。
しかも、いびきもそのままだ。
口元には細いよだれが垂れている。
信夫
(寝言を言いながら)
「……だめだ……
それ、俺の飯茶碗……」
カッ。
鋭い音。
杖が信夫の頭のすぐ横の地面を叩く。
信夫は飛び起きる。
信夫
「盗ってませんって――!」
彼は固まる。
ケイリンが立っている。
冷たく。
微動だにせず。
杖を手にしたまま。
ケイリン
「センはどこ?」
信夫は瞬きをする。
辺りを見回す。
信夫
「……いたんですけど。」
カッ。
再び杖が打ち下ろされる。
今度はさらに近く。
ケイリン
「見張っているはずだったでしょう。」
信夫はごくりと唾を飲み込む。
ケイリンは氷のような視線で彼を見つめる。
_
朝日が岩壁を照らしている。
風が吹く。
涼司とセンは岩壁を登っている。
二人を繋ぐロープはぴんと張られている。
だが今回は――
争いはない。
抵抗もない。
二人の動きは完全に同調している。
一人が進めば、もう一人が続く。
一人が止まれば、もう一人が呼吸する。
まるで一つの身体。
一つのリズム。
一つの呼吸。
センはもう無理に動こうとしない。
感じているのだ。
涼司ももう歩調を緩めない。
その必要がないからだ。
二人は進む。
滑らかに。
自然に。
静かに。
下の方にケイリンの姿が見える。
彼女は二人を見上げている。
その目に、ほんのわずかな変化が宿る。
気づけないほど微かな変化。
ケイリン
(小さく呟く)
「興味深い……」
その上では――
センと涼司が難所を越える。
ためらうことなく。
一度の失敗もなく。
まるで岩壁そのものが、もはや障害ではないかのように。
センは縁へと近づく。
その動きは張り詰めているが正確だ。
足場を見つける。
最後のひと踏ん張り。
そして岩壁の上へと身体を引き上げる。
しばらくしゃがみ込み、息を整える。
やがて顔を上げる。
涼司はすでにそこにいる。
立ったまま。
微動だにせず。
二人は見つめ合う。
沈黙。
涼司が一歩近づき、手を差し出す。
助けるためではない。
祝福するように。
称えるように。
センの顔に、疲れながらも誇らしげな笑みが浮かぶ。
彼は涼司の手を握る。
そして立ち上がり、背後の岩壁を振り返る。
セン
「よっしゃあ! やったぞ!
もう一回やるか!?」
ケイリン
「だめ。」
センは眉をひそめる。
セン
「……だめ?」
ケイリン
「その岩壁から学べることは、もうない。」
しばしの沈黙。
ケイリンは背を向け、歩き出す。
ケイリン
「来なさい。」




