あやめとヒラキ
数年前。
学校は静かだ。
桜の花びらが道を舞っている。
十三歳の少年が一人で歩いている。
肩には少し大きすぎる鞄。
その時。
ボールが飛んでくる。
少年の頭に当たる。
フェンスの向こう。
一人の少女が立っている。
少年はボールを拾う。
手がわずかに震えている。
そして。
フェンスの向こうへ投げ返す。
少女が近づく。
小さく頭を下げる。
視線が重なる。
ほんの数秒。
微笑みだけで十分だった。
少女
「名前は?」
少年
「藤本ヒラキ」
少女
「初めまして」
少女
「水野あやめです」
_
日が過ぎていく。
やがて。
何週間も。
あやめとヒラキは放課後によく会うようになる。
小さな公園。
あるいは帰り道。
二人は色々な話をする。
小川へ石を投げる。
水切りを競う。
古いベンチに並んで座ることもあった。
それぞれノートを開く。
片方は絵を描き。
もう片方は本を読む。
あやめの描いた不格好な絵を見て。
ヒラキが小さく笑う。
時間は流れる。
二人の友情も。
少しずつ深くなっていく。
***
一年が過ぎる。
十四歳になったヒラキ。
家のキッチンにいる。
温かな空気。
バニラと砂糖の甘い香りが漂っている。
母親と一緒にお菓子を作っていた。
手には小麦粉が付いている。
二人は笑い合う。
ヒラキが生地の付いたスプーンを母親へ向ける。
鼻先に付けようとしている。
母親は笑いながら顔を背けた。
ヒラキの母
(笑いながら)
「ヒラキ!そんなことしてると自分が生地まみれになるわよ!」
二人は並んで作業を続ける。
母親が型への流し方を見せる。
ヒラキは手についた小麦粉を慌てて払う。
視線が合う。
二人は微笑み合う。
***
数日後。
校庭は春の日差しに包まれている。
桜の花びらが地面を彩る。
淡い桃色。
風に乗ってゆっくり舞っていた。
ヒラキは小さな包みを抱えている。
丁寧に包装されたものだ。
あやめの前で立ち止まる。
ヒラキ
「これ……君に作ったんだ」
あやめの目が輝く。
期待と好奇心。
包みをそっと受け取る。
開く。
中にはクッキー。
あやめの顔に笑顔が広がる。
あやめ
「ヒラキ!すごくおいしそう!ありがとう!」
次の瞬間。
あやめは勢いよくヒラキに抱きつく。
ヒラキは目を丸くする。
だが。
すぐに笑った。
クッキーが少しだけ包みの中で崩れる。
けれど。
二人とも気にしなかった。
***
ヒラキは自室にいる。
ゲームをしている。
その時。
階下から怒鳴り声が聞こえてくる。
ヒラキの父
「二人とも働いたら誰がヒラキの面倒を見るんだ!?」
ヒラキの母
「もうあなたの文句にはうんざりよ…私だってまた働きたいの!」
ヒラキの父
「本当に恩知らずだな!今の生活ができるように俺がどれだけ犠牲になったと思ってる!?」
ヒラキの母
「何も分かってない!私はそんなこと頼んでない!」
ヒラキの父
「他の女なら喜んでるぞ!」
ヒラキの母
(涙声で)
「だったら別の人と結婚すればよかったじゃない!」
怒鳴り声が壁にぶつかる。
家の中に響く。
一つ一つの言葉が胸に刺さる。
小さな部屋にも届く。
ヒラキはコントローラーを強く握る。
肩に力が入る。
どうすることもできない。
その重さだけがのしかかる。
ヒラキ
「どうして……どうして二人とも……ケンカするのをやめられないんだよ……」
***
季節が巡る。
ヒラキの家では。
両親の口論が少しずつ増えていく。
秋が訪れる。
金色の葉が風に揺れる。
あやめの髪も風になびいていた。
ヒラキは変わった形の枝を拾う。
フェンス越しにあやめへ差し出す。
あやめは公園で見つけた花を見せる。
二人は笑う。
小さな発見を分け合う。
誰にも見えない世界を共有するように。
そしてある日。
ヒラキが家の扉を開ける。
玄関にはスーツケースが置かれている。
ファスナーは閉じられていた。
まるで出発を待っているように。
リビングは静かだった。
静かすぎるほどに。
父親と母親がいる。
動かない。
何も言わない。
父親は視線を逸らしている。
母親は泣くのを堪えているようだった。
ヒラキは悟る。
誰も何も言わないうちに。
胸が締め付けられる。
喉の奥が苦しい。
涙が込み上げる。
必死に堪える。
母親が一歩前へ出る。
どこかためらうように。
手がわずかに震えていた。
ヒラキの母
「ヒラキ……しばらく家を離れることになったの」
ヒラキ
「どういうこと……?」
ヒラキの母
「少しの間だけ...家族のところへ行こうと思ってるの」
ヒラキは首を振る。
涙が溢れそうになる。
声が震える。
悲しみと怒りが入り混じっていた。
ヒラキ
「でも……家族って……僕たちじゃないか……」
沈黙。
ヒラキの母
「分かってるわ」
短い沈黙。
ヒラキの母
「でもフランスの家族にも会いたいの。それに……お父さんと私は少し考える時間が必要なの....お願い……怒らないで……」
ヒラキは答えない。
胸の奥が熱い。
怒りが広がっていく。
息を吸う。
叫びそうになるのを堪える。
リュックの肩紐を強く握る。
一歩後ろへ下がる。
そして。
自分の部屋へ逃げ込む。
_
ヒラキは勢いよくドアを閉める。
その音が響く。
ヒラキは窓へ近づく。
息が苦しい。
胸が重い。
窓の外。
家の前にはタクシーが停まっている。
母親が家から出てくる。
スーツケースを引いていた。
ゆっくりと。
タクシーへ向かう。
その時。
母親が顔を上げる。
ヒラキの部屋の窓を見る。
ヒラキは反射的に視線を逸らす。
見ていられなかった。
窓枠を握る手に力が入る。
時間が過ぎるたび。
二人の距離が広がっていくようだった。
母親がタクシーに乗り込む。
車が走り出す。
やがて。
街灯に照らされた通りの向こうへ消えていく。
ヒラキはその場から動かない。
額を窓に押し当てる。
涙が流れる。
熱かった。
そして。
堪えていたものが溢れ出す。
嗚咽が漏れる。
静かな部屋の中で。
一人きりだった。
***
翌日。
校庭には鞄の音と足音が響いている。
あやめは少し離れた場所に立っていた。
鞄を胸に抱いている。
何度もヒラキを見る。
ヒラキは校門へ向かって歩いている。
足取りは重い。
どこか上の空だった。
ジュン
(小声で)
「ほら……今しかないって。頑張れ」
あやめは深く息を吸う。
拳を握る。
そして。
ゆっくり歩き出す。
足取りは不安げだった。
一歩ごとに勇気を振り絞るように。
口を開く。
だが。
言葉が出てこない。
その様子を見たジュンが前へ出る。
迷いのない足取りだった。
ジュン
「ねえ、ヒラキ!えっと……大丈夫?今から帰るところ?
...あやめが話したいことあるみたいなんだけど……
帰り、一緒にどう?」
言葉が空気の中に残る。
だが。
ヒラキは顔を上げない。
視線は地面へ向いたまま。
心は別の場所にあった。
ジュンの言葉もほとんど耳に入らない。
ただ。
一つだけ。
引っかかる言葉があった。
一緒に帰?
時間が止まる。
ヒラキは母親を思い出す。
ヒラキ
(顔を上げないまま)
「一人で帰ればいいだろ。その方がいい。別に俺なんか必要ないんだから」
あやめが固まる。
頬が赤くなる。
身体が強張る。
涙が込み上げる。
それでも必死に堪える。
世界が揺らぐようだった。
周囲の声が遠くなる。
ジュンは何か言い返そうとする。
だが。
あやめが背を向ける。
鞄を強く抱き締めていた。
ジュンは黙る。
女子生徒たち
「かわいそう……私だったら恥ずかしくて無理かも……」
あやめは走り去る。
逃げるように。
だが。
ヒラキは気付かない。
怒りと悲しみの中に閉じこもったままだった。
***
(現在――鏡ヶ丘高等学校)
大ホールは活気に満ちている。
笑い声。
料理の匂い。
きらめく飾り付け。
生徒たちは学園祭の準備に追われていた。
飾りを運ぶ者。
段ボールを抱える者。
脚立に上る者。
ヒラキはしばらくその場で立ち尽くす。
そして。
意を決したように歩き出した。
あやめのもとへ向かう。
あやめはガーランドを取り付けていた。
ヒラキ
「あやめ……」
少し躊躇う。
ヒラキ
「手伝おうか?」
あやめ
「またケーキ生地でも飛ばすつもり?結構です」
ヒラキは拳を握る。
そして背を向ける。
あやめ
「ねえジュン!酒井見なかった?」
ヒラキの足が止まる。
ヒラキ
「どうしてそんなに追いかけるんだよ」
あやめが眉をひそめる。
周囲の生徒たちも思わず視線を向けた。
あやめ
「は?あんたに関係ないでしょ!」
ヒラキ
「酒井はお前に興味なんかない!」
空気が凍る。
ヒラキ
「そんなの。お前以外みんな分かってる!」
沈黙。
周囲の賑わいだけが遠くで続いている。
あやめは固まる。
傷ついた表情。
周囲の視線が集まる。
ひそひそと声が広がる。
ヒラキは我に返る。
自分が何を言ったのか理解する。
何か言おうとする。
だが。
言葉が出てこない。
あやめは立ち去る。
ヒラキは動けない。
周囲の生徒たちの視線が突き刺さる。
顔から血の気が引いていく。




