機会
原は静かに執務室のドアを閉める。
重たい静寂が落ちる。壁掛け時計のかすかな音だけが、規則的に響いている。
日野
「お前が何しようとしてるか、分かってるぞ……原。」
原
「日野……」
日野
(遮るように)
「違う……俺はタミに約束したんだ。」
原
「俺だって、同じ約束はしている……」
重苦しい沈黙が流れる。
やがて、控えめだがはっきりとしたノックがドアに響く。
原
「入りなさい。」
ドアがわずかに開き、信夫が遠慮がちに顔を覗かせる。
信夫
「アヤが到着しました。」
原はわずかに頷く。
***
ミナはエントランスホールを横切る。
磨かれた床が朝の光を反射し、明るい壁とガラスケースに囲まれた広い空間に、彼女の足音がかすかに響く。
柱の陰を曲がったところで、ミナは一人の女性に気づく。
小林アヤ。
黒く長い髪、すらりとした体つき。優雅な佇まいと、どこか謎めいた眼差しが、強い存在感を放っている。
ミナはわずかに眉をひそめる。
アヤ
「ミナ?あなたで間違いないわよね?」
ミナは慎重に近づく。驚きと好奇心が入り混じった表情で。
ミナ
「はい……」
アヤ
「まあ……ずいぶん久しぶりね。最後に会ったときより、すっかり大きくなったわ。」
ミナは少し戸惑う。
アヤ
「私のこと、覚えている?」
ミナは小さくうなずく。
ミナ
「母の葬儀に……来ていらっしゃいましたよね。」
アヤ
(わずかに寂しげに)
「ええ……そうね。」
ミナ
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
アヤ
「ちょっとした挨拶よ。」
そのとき、信夫が近づいてくる。状況を見守るように。
信夫
「アヤ……」
アヤは軽く顔を向ける。意味ありげな微笑みを浮かべると、そのまま歩き出す。まるで床を滑るように。
アヤ
「また会いましょう、かわいいミナ。」
ミナはしばらくその場に立ち尽くす。困惑したまま、遠ざかっていく背中を見つめる。
ミナ
「また……って、どういうこと…」
まばたきをする。
まだ彼女の不思議な雰囲気に心を奪われたまま。
***
信夫は静かに原校長の執務室のドアを開ける。
アヤが音もなく中へ滑り込む。
信夫はそのままドアを閉め。
廊下の奥で、小さな影がひょこりと顔を覗かせる。
ミナだ。
彼女はつま先で歩き、影のように近づいてくる。
執務室の前にたどり着き、ドアに耳を当てる。
――何も聞こえない。
気配すらない。
迷わず動く。
左へ向き、隣の小さなコピー室のドアをそっと開け、中へ滑り込む。
ここは知っている場所。
なぜここに来たのかも、分かっている。
蛍光灯がわずかにジジッと音を立てる。
ミナはコピー機を回り込み、迷いなく奥の棚へ向かう。
紙の束を少しだけ押しのける――
壁に埋め込まれた小さな通気口が現れる。
しゃがみ込む。
高さは低い。耳を直接当てることはできない。
だが、少し身を乗り出せば――声は、かすかに届く。
全部ではない。
だが、重要な部分だけは。
息を潜める。
聞く。
日野
(くぐもった声で)
「アヤ……どうしてここに来た?」
原
「俺が呼んだ。」
アヤ
「会えて嬉しくないの、日野?」
日野
「そういう問題じゃない……もう終わったと思ってた。」
原
(静かに)
「終わっていない。分かっているだろ。」
日野
「原……お前が何をしようとしてるか、分かってる。」
ミナは息を飲む。
原
(低く、しかしはっきりと)
「考えすぎだ。」
日野
「考えすぎじゃない!
これ以上進むなら……続けるなら……
俺は出る。ミナを連れて。」
ミナは思わず体を起こす。
心臓が強く打つ。
ミナ
「出る……?なんで……?」
原の目が鋭くなる。
日野に歩み寄る。
原
(低く)
「ミナに対して、お前に権利はない。日野。」
ミナにはよく聞こえない。
「――え?今、なんて言った?」
日野
(はっきりと)
「俺はミナの父親だ、原。」
アヤ
「落ち着いて。誰もミナを危険にさらすつもりはないわ。
(間)
でも今回は……好機が自然に訪れたの。」
ミナは眉をひそめる。
「好機?」
日野
「原……やめろ。」
信夫
「日野、慎重にやればいいだけだ。」
アヤ
「こちらでも調べるわ。
すべてが……管理下にあるように。」
信夫
(驚いて)
「本気で復帰するつもりか?」
アヤ
「選択の余地はないわ……」
ミナ
「復帰?
記者として?
どういうこと?」
沈黙。
原
(静かに)
「待ちすぎた。酒井が来た今が、動くべき時だ。」
ミナは動けない。
呼吸すら忘れる。
――「酒井」
その名前が、電流のように体を走る。
重たい沈黙。
布の擦れる音。
椅子が動く。
足音。
誰かがコートを手に取る。
アヤ
「慧の言う通りよ。この機会、逃すわけにはいかない。」




