言えなかった言葉
寮。
静まり返っている。
照明は落とされている。
廊下には青白い薄闇だけが残っていた。
センが階段を上る。
ゆっくりと。
足音を忍ばせながら。
顔から血は消えている。
だが傷は残っていた。
切れた唇。
腫れた頬。
そして。
どこか疲れた目。
階段を上り切る。
センは足を止める。
静寂。
部屋の扉が並んでいる。
閉ざされたまま。
眠る生徒たちの気配だけがある。
センは歩き出す。
ヒノの部屋の前まで。
手を上げる。
だが。
ノックはしない。
そのまま立ち尽くす。
自分が何をしたいのか。
自分でも分からない。
その時。
声が響く。
あやめ
「酒井君?」
センが肩を震わせる。
振り返る。
廊下の向こうにあやめが立っている。
常夜灯の光が顔を照らす。
不思議そうな顔。
少し心配そうな顔。
あやめ
「まだ起きてたの?日野の部屋の前で何してるの?」
セン
「いや……別に」
ぎこちなく笑う。
そのまま立ち去ろうとする。
だが。
あやめが近づいてくる。
あやめ
「その顔……」
少し身を乗り出す。
あやめ
「怪我してる?」
センが反射的に後ずさる。
背中が壁に当たる。
あやめの視線がセンの顔を追う。
あやめ
「喧嘩?何があったの?」
セン
「いや大したことない」
視線を逸らす。
セン
「ちょっと転んだだけだから」
あやめ
「治してあげようか?」
セン
「いや、本当に――」
突然。
隣の扉が勢いよく開く。
ミナ。
目を見開く。
あやめとセン。
二人の距離が近い。
今にも触れそうなほど。
空気が凍る。
だが。
ミナはすぐに表情を消す。
ミナ
「静かにしてくださいよ」
冷たい声。
次の瞬間。
扉が閉まる。
鋭い音を立てて。
セン
「ミナ、待て!」
あやめの横を抜ける。
扉を叩く。
セン
「ミナ!開けてくれ!
頼む!ミナ!」
廊下の奥から声がする。
信夫
「酒井?水野?」
二人が振り返る。
信夫が歩いてくる。
腕を組みながら。
信夫
「こんな時間に何をしてる」
穏やかな声。
だが有無を言わせない。
信夫
「部屋へ戻れ」
あやめがため息をつく。
センは信夫へ歩み寄る。
セン
「信夫さん、俺――」
信夫が遮る。
信夫
「原との約束を忘れたのか?」
小さな声。
セン
「でもミナが誤解して――」
信夫
「酒井」
それだけだった。
センは黙る。
悔しさが喉に詰まる。
小さく舌打ちしそうになるのを堪える。
そして。
何も言わずに背を向ける。
そのまま自分の部屋へ戻っていった。
***
センが部屋へ入る。
勢いよく扉を閉める。
バタン。
次の瞬間。
カチッ。
ベッド脇のランプが点く。
セン
「うわっ!?」
思わず肩を跳ねさせる。
目の前。
ベッドの上に二人。
腕を組んで座っている。
雄輝とヒラキ。
二人とも妙に険しい顔をしている。
セン
「何してるんだよ!?」
雄輝
「待ってた」
真面目な顔。
ヒラキ
「四十二分ほどな」
深刻そうに頷く。
セン
「測ってたのかよ!?」
雄輝
「当然だろ。死んだのかと思った」
ヒラキ
「あるいは忍者に攫われたか」
短い沈黙。
ヒラキ
「水野に攫われたか」
沈黙。
ヒラキ
「まあ大差ないけど...」
センが呆れたように目を閉じる。
雄輝
「で?何があった?」
ヒラキ
「その顔どうしたんだよ。壁と喧嘩したのか?」
雄輝
「いや鏡には勝った顔だな」
センがため息をつく。
セン
「何でもない大丈夫だから」
雄輝
「額からまだ血出てるぞ」
ヒラキ
「頬には靴跡もあるし」
センが頬を触る。
セン
「これは……」
視線を逸らす。
セン
「ボクシングだよ...原校長に習ってる」
雄輝とヒラキが顔を見合わせる。
ヒラキ
「ボクシング?」
雄輝
「原校長が?あの人が負傷したカタツムリより速く動くところ見たことないけど」
セン
「原校長じゃない...コーチだよ」
少し苛立った声。
雄輝
「なんで原先生がお前のボクシング代なんか払うんだ?」
センが黙る。
そして。
大きく息を吸う。
セン
「俺が前の学校を退学になった理由覚えてるか?」
空気が止まる。
二人が頷く。
セン
「兄貴が死んでから...幻覚みたいなものを見るようになった。ある日兄貴を殺した奴がいると思ったんだ」
短い沈黙。
セン
「でも気が付いたら...ただの生徒だった」
沈黙。
雄輝とヒラキは何も言わない。
数秒が過ぎる。
雄輝
「お兄さんは……」
言葉を選ぶ。
雄輝
「どうやって亡くなったんだ?」
センが迷う。
だが。
初めて口を開く。
セン
「俺......俺を守ろうとしたんだ」
重い沈黙が落ちる。
二人とも言葉が出ない。
セン
「だからボクシングなんだ。原校長は幻覚を追い出す助けになるかもしれないって……発散するためにも」
ヒラキ
「発散、か……なるほどな……」
沈黙。
雄輝
「…よし。
じゃあ俺たちは今後、
絶対にお前を怒らせない」
ヒラキ
「水野ネタも禁止」
雄輝
「髪型ネタも禁止」
セン
「髪型?」
ヒラキが口笛を吹く。
ヒラキ
「いびきネタも禁止」
セン
「俺はいびきなんかかかない」
雪希がスマホを取り出す。
雄輝
「証拠あるぞ...録音もある...しかもプレイリストまで作った
タイトルは――『カテゴリー・セン台風』」
セン
「何でお前らと友達なんだっけ……」
雄輝&ヒラキ
「俺たちが魅力的だから」
センの口元が緩む。
張り詰めていた空気がほどける。
そして。
久しぶりに。
センは心から笑った。
***
翌日。
生徒たちがスーツケースを引きながら校舎の階段を下りていく。
保護者の姿を見つけるなり駆け寄る者もいる。
その逆もいる。
センも階段を下りる。
背中にはリュック。
フードを深く被っている。
顔は半分ほど隠れていた。
両手はポケットの中。
まるで家へ帰るのが待ちきれないような足取りだった...
階段の下ではアキが待っていた。
原慧
「酒井」
センが振り返る。
原が数段の階段を下りてくる。
原慧
「来週の休暇だがお前は家には帰らない」
セン
「それはむしろ嬉しい知らせですね」
原慧
「俺にはもう残響術を教えられない」
短い沈黙。
原慧
「最初の条件は覚えているな」
センが頷く。
原慧
「学校祭の後、お前は出発する」
原が歩き出す。
原慧
「田辺さんには話してある。心配するな。お前の父親は補習のためだと思っている」
セン
「ミナは?」
原が足を止める。
振り返る。
原慧
「どういう意味だ?」
セン
「ミナには何て説明するんですか?」
原慧
「知らない方がいい...それがお前のためでもあり。ミナのためでもある」
短い沈黙。
原慧
「良い週末を」
センは何も言わない。
原が去っていく。
その背中を見送る。
そして。
ふと視線を上げる。
窓際に人影がある。
ミナ。
二人の視線が重なる。
数秒だけ。
言葉はない。
それでも。
別れの挨拶には十分だった。
やがてセンが目を逸らす。
残りの階段を下りる。
アキが後部座席のドアを開く。
センは車へ向かう。
だが。
途中で足を止めた。
振り返る。
窓を見る。
ミナの姿はもうない。
センはしばらく待つ。
また現れる気がした。
だが。
何も起きない。
センは小さくため息をつく。
そして車へ乗り込む。
ドアが閉まる。
車が走り出す。
ゆっくりと遠ざかっていく。
数秒後。
階段の上。
一つの影が飛び出してくる。
ミナ。
急いで階段を駆け下りる。
せめてもう一度。
センの姿を見たかった。
だが。
間に合わない。
車はもう遠くへ走り去っていた。




