静かな混乱
黒沢が校内の廊下を足早に進む。
ほとんど駆けるような勢いで。
二人の武装警備員がその後ろに続く。
さらにその後ろには。
信夫。
日野先生。
そしてミナ。
ミナ
「センに何が起きてるんですか!?」
黒沢の腕の中で。
センの身体が激しく痙攣する。
センの目は完全に白く染まっている。
焦点が合っていない。
まるで別の世界を見ているかのように。
そして――
全身を覆うルーン。
まだ消えない。
不安定に明滅し続けている。
まるで暴走しているかのように。
刻まれた紋様が熱を帯びる。
皮膚を焼くように。
***
一行は原の執務室の地下に隠された訓練室へ辿り着く。
日野先生が中央のテーブルに置かれていた物を乱暴に払い落とす。
黒沢がセンを横たえる。
信夫はすでに開かれた戸棚の前に膝をついている。
注射器を掴む。
透明な液体を吸い上げる。
そして躊躇なく。
センの首へ突き刺した。
一秒。
二秒。
センの身体から力が抜ける。
激しい痙攣が止まる。
ルーンの輝きが弱まっていく。
そして――
一つずつ消える。
まるで火の消えかけた炭火のように。
やがて。
センの瞼が閉じる。
ようやく安らいだように。
重い沈黙が部屋を包む。
その時になって初めて。
誰もが息を吐いた。
長い間。
息を止めていたことに気付いたかのように。
ミナがセンへ近づく。
そっと手を伸ばす。
だが。
髪に触れる直前で止まる。
一筋の涙が頬を伝う。
ミナは目を瞬かせる。
自分が泣いていることに気付いていない。
慌てて手の甲で拭う。
***
学園の正門前――
原とアヤがタクシーから飛び出す。
二人は学園へ続く階段を駆け上がる。
――
校舎のロビー。
まだ騒然としている。
警備員
「原校長!」
警備員が駆け寄る。
警備員
「生徒たちは全員無事です。
負傷者もいません」
原慧
「黒沢はどこだ!?」
***
原とアヤが秘密の部屋へ入る。
迎えたのは静寂だった。
誰もいない。
その時上階の小部屋から物音が聞こえる。
二人は大広間を囲む側階段へ向かう。
宙に張り出したバルコニーへ続く階段。
足元の木材が小さく軋む。
二人は扉を開く。
小さな部屋。
木造の温かな空間。
まるで外の世界から切り離された山小屋のようだった。
空気は静かだ。
穏やかで。
どこか張り詰めている。
部屋の中央。
ベッドの上にはセンが横たわっている。
意識はない。
その傍らにはミナ。
そして。
日野先生。
信夫。
黒沢。
全員が揃っていた。
かつてセンの身体を覆っていたルーン。
その痕跡だけが残っている。
黒ずんだ不規則な痕。
まるで火傷の跡。
あるいは傷痕のように。
原が歩み寄る。
眉をひそめる。
原慧
「……あり得ない」
誰も答えない。
答えられない。
合理的な説明が存在しないからだ。
原慧
「黒沢」
黒沢
「はい」
原慧
「シェイドがどうやってうちの警備システムに侵入したのか突き止めろ」
黒沢
「承知しました」
黒沢は即座に部屋を後にする。
原慧
「アヤ。
シェイドの正体を調べてくれ。
酒井と繋がりがあるのかどうかもだ」
アヤが頷く。
原慧
「信夫。
センの傍についていろ。
ついでに診てやってくれ」
短い沈黙。
原慧
(独り言のように)
「ルーンを一人で発動した……
何かがおかしい」
部屋が静まり返る。
ミナ
「私は?」
原が振り返る。
原慧
「お前と父親は普段通りにしていろ」
ミナ
「それだけ?」
原はミナの前まで歩み寄る。
原慧
「生徒や保護者、それに報道までがこの学園の安全性を疑い始めたら終わりだ」
短い沈黙。
原慧
「この学園の評判が、
俺たちを生かしている」
原の言葉がミナの胸に残る。
ミナは何も言わない。
***
襲撃当日の夜――
総務大臣執務室。
中村義が重厚な木製の扉の前で足を止める。
短く息を整える。
そして扉を叩いた。
男性の声
「入れ」
義が扉を開く。
広々とした執務室。
壁にはルネサンス絵画が飾られている。
照明は柔らかい。
だが、その全てが計算され尽くしていた。
権力の匂いがする部屋だった。
執務机の向こう側。
黒川翼が視線を上げる。
隙のないスーツ姿。
その表情に疲労は見えない。
黒川翼
「中村君。
深夜にわざわざ私を呼び出した以上、
それなりの理由があるのだろうね」
中村義
「大臣……」
義が軽く頭を下げる。
中村義
「酒井隼人氏の件です」
黒川の目がわずかに細まる。
中村義
「酒井氏が所有するビルの一つが、
先ほど襲撃を受けました」
黒川が眉をひそめる。
中村義
「ですが……
単発の事件ではない可能性があります」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
中村義
「トラマによる犯行かもしれません」
空気が凍る。
黒川翼
「トラマだと?
連中は全員始末した」
中村義
「完全には……」
短い沈黙。
中村義
「六つの首輪のうち、
三つはいまだ所在不明です」
黒川がゆっくりと立ち上がる。
机を回り込む。
重い沈黙が落ちる。
黒川翼
「酒井は何を望んでいる?」
中村義
「残っているトラマの構成員を、全員見つけ出すことです」
黒川が深いため息を吐く。
黒川翼
「なぜだ……」
苛立ちを押し殺すように。
黒川翼
「なぜ私は、まだあの酒井の要求を聞かねばならん?」
義は一瞬だけ迷う。
だが口を開く。
中村義
「僭越ながら、大臣。
大臣を当選させたのは、酒井氏です」
沈黙。
中村義
「世論を動かせる。
警察も耳を貸す。
政界にも酒井氏の影響を受ける者は少なくありません」
義は黒川を真っ直ぐ見据える。
中村義
「協力を拒めば……
得策ではないかと」
黒川が目を閉じる。
消せない借りを思い出すように。
黒川翼
「分かっているよ、義」
低い声。
黒川翼
「あの男は容赦がない」
やがて目を開く。
そこには決断があった。
黒川翼
「使えるものは全て使え」
短い沈黙。
黒川翼
「トラマの生き残りを探し出せ」
中村義
「承知しました」
義が深く頭を下げる。
そして部屋を後にする。
豪奢な執務室に残されたのは――
権力者。
そして。
その権力に縛られた一人の男だけだった。




