避難
原慧は少し離れた場所から、目の前の男をじっと見つめていた。
薄暗い照明のせいで、顔までははっきり見えない。
だが――
酒井隼人。
座ったままでも、人を圧倒する存在感があった。
やがて、低く重い声が響く。
酒井隼人
「中村。
もう下の連中には飽きたのか?」
中村義
「いえ、そういうわけでは。
ただ……鏡ヶ丘高等学校の校長先生とお会いしまして」
酒井隼人
「なるほど……あなたでしたか」
酒井の視線が原へ向く。
酒井隼人
「息子が、あまりご迷惑をおかけしていなければいいのですが」
原慧
「なぜ、そう思われるのですか?」
酒井が小さく笑う。
乾いた笑いだった。
その場の空気がわずかに冷える。
酒井隼人
「センは、酒井の名に見合う人間とは言い難い」
原慧
「それが、ご子息に対する評価ですか?」
酒井はウイスキーを一口飲む。
そしてグラスをテーブルへ置く。
ゆっくりと立ち上がった。
酒井隼人。
大きい。
圧倒的だった。
声を荒げる必要などない。
ただそこに立つだけで、部屋の支配者だと分かる。
ようやく。
ようやく、この男が目の前にいる。
原の夜を何年も蝕み続けた男。
タミを殺した男。
組織を壊滅させた男。
何度も悪夢に現れた男。
酒井隼人が――
今、数メートル先にいる。
殺せる。
今ここで。
簡単に。
だが――
それでは足りない。
そんな復讐では。
慧が味わった年月を埋めることはできない。
妹の死を何度も見続けた悪夢は消えない。
あの日の記憶も――
それでも。
奇妙な安堵が胸に広がる。
ようやく。
ようやく、この男の目を見ることができた。
酒井隼人
「だからこそ、あなたの学校へ預けたのです」
酒井は淡々と続ける。
酒井隼人
「出来損ないや問題児を更生させるのでなければ、
あなたは何のために学校を作ったのです?」
原は動かない。
表情も変わらない。
だが、その瞳の奥には計り知れない憎悪が宿っていた。
原慧
「約束だったので」
酒井が薄く笑う。
冷たい笑みだった。
酒井隼人
「約束を守る人間か。
(短い沈黙。)
父親との約束ですか?」
原の顎に力が入る。
原慧
「……いいえ。
(沈黙。)
兄から妹への約束です」
酒井の目が細くなる。
挑発するような視線。
空気が張り詰める。
まるで、目に見えない決闘が始まったかのようだった。
酒井隼人
「家族こそがすべてだ。
誰もが家のために尽くし、
その名に恥じぬ人間でなければならない」
原は表情を変えない。
わずかに奥歯を噛み締める。
原慧
「家族ほど大切なものはありません」
その時――
部屋の壁が微かに震える。
遠くで鈍い音が響いた。
まるで何かの衝撃波が建物を貫いたような音。
グラスの中の酒が揺れる。
照明がちらつく。
男たちや女性たちの間から、不安そうなざわめきが上がる。
中村義
「また地震ですか?」
次の瞬間。
さらに大きな揺れ。
ガシャン――!
グラスが床へ落ちて砕け散る。
そして。
パーティー会場の方から悲鳴が響いた。
驚き。
恐怖。
混乱。
中村義
「何が起きているんです!?」
酒井と原は動かない。
どちらも慌てない。
ただ耳を澄ませていた。
音の一つ一つを分析するように。
原慧
「……地震ではありません」
言い終わるより早く。
轟音。
猛烈な衝撃波が部屋を貫く。
グラスが一斉に爆発する。
シャンデリアが天井から落下する。
全員が床へ吹き飛ばされた。
熱風。
粉塵。
混沌が一気に部屋を飲み込んだ。
***
学校――
カチッ。
乾いた機械音が廊下に響く。
一つ目の火災検知器が作動する。
そして二つ目。
さらに三つ目。
まるで連鎖するように、校内中の検知器が次々と反応していく。
次の瞬間。
無数のスプリンクラーが一斉に作動した。
プシューーーッ!!
冷たい水が、校舎中の廊下と寮へ容赦なく降り注ぐ。
火災警報が鳴り響く。
ミナ
(飛び起きながら)
「な、何――!?」
センは呆然と立ち尽くす。
水が髪に叩きつけられる。
頬を伝う。
服はあっという間にびしょ濡れになった。
バタン!
バタン!
次々と扉が開く。
生徒たちが部屋から飛び出してくる。
慌てている者。
まだ寝ぼけている者。
その時――
校内放送が響く。
機械的な声だった。
『熱異常を検知しました。
直ちに建物から避難してください』
ミナ
(警報に負けないよう叫ぶ)
「酒井!
来て!
南側の中庭に向かうわよ!」
信夫が寮の廊下を走ってくる。
両手を大きく振りながら。
信夫
「全員外へ!
急げ!
陸上競技場の避難区域へ移動しろ!」
水が至る所から噴き出している。
廊下の照明を反射しながら、床は完全にスケートリンク状態だった。
生徒たちは悲鳴を上げながら非常階段へ向かう。
その時。
ヒラキが勢いよく部屋の扉を開ける。
直後――
大量の水をまともに浴びる。
ヒラキ
「何だよこれぇ!?」
その後ろから雄輝が現れる。
器用に水たまりを避けながら。
なぜか楽しそうだった。
雄輝
「なあヒラキ。
そのパジャマ何?
水ですら近寄るのためらってるぞ」
ヒラキが睨みつける。
ヒラキ
「き、着替える暇なんてなかったんだよ!」
信夫
「いいから急げ!
全員外だ!」
その時――
ドォン!
一つの部屋の扉が勢いよく開く。
寝癖だらけの髪。
鬼のような形相。
大袈裟な動き。
あやめ。
まるで漫画から飛び出してきた悪魔そのもの。
あやめ
「誰よォォォ!!
こんなことしたのはァァァ!!」
ヒラキと雄輝が反射的に後ずさる。
心臓が跳ね上がる。
雄輝
「うわっ!?」
あやめ
「何見てんのよ!?」
ヒラキと雄輝はガタガタ震える。
教師たちが生徒を避難階段へ誘導していく。
照明が一瞬ちらつく。
またちらつく。
まるで湿気が電気系統へ影響を与え始めているかのようだった。




