疑念
街中にあるマンション。
小さくて質素だが、どこか居心地のいいアパート。
アヤが帰宅する。
玄関の棚へ鍵を放り投げる。
その足取りには、少しだけ酔いが滲んでいた。
リビングは完璧に整っている。
揃えられたクッション。
塵一つないローテーブル。
すべてが、几帳面な日常を物語っていた。
アヤは、その奥の部屋へ向かう。
古いデスクライトの黄色い光が――
そこだけ、別世界みたいな光景を照らしていた。
壁一面に貼られた新聞記事。
印刷された写真。
書き殴られた付箋。
赤い糸で繋がれた図やメモ。
整然としたリビングとの落差が激しい。
この部屋だけ、息苦しいほどだった。
紙の嵐みたいな空間の中央で。
アヤは机の前へ座る。
そして――
ふと、ハタ シオのことを思い出す。
気づけば、小さく笑っていた。
静寂。
その時――
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
ありふれた音。
なのに、雷みたいに響く。
アヤが勢いよく顔を上げる。
目が見開かれる。
動けない。
耳を澄ます。
ピンポーン。
今度は、少し強引に。
アヤはゆっくり立ち上がる。
誰か来る予定なんてない。
こんな時間に訪ねてくる人間もいない。
アヤは乱暴に鍵を外す。
そして、扉を半分だけ開ける。
そこにいたのは――
原。
手には、まだ温かい料理の入ったコンビニ袋。
原慧
「飯は食ったか?」
アヤが何か言うより先に――
食べ物の匂いが鼻へ入った瞬間。
込み上げる。
アヤはそのままトイレへ駆け込む。
原は廊下に立ったまま。
今起きたことに、珍しく少し驚いていた。
_
アヤはトイレにいる。
原には、彼女が吐いている音がはっきり聞こえていた。
原慧
「大丈夫?
何かいるか?」
アヤ
(吐きながら)
「たぶん……尊厳とか……」
原慧
「見つけたら教えてやる」
原は静かに、アヤの“調査ボード”を眺める。
壁一面に広がる情報。
新聞記事。
写真。
赤い糸。
異様な執念。
やがてアヤがトイレから出てくる。
そのまま小さなソファへ倒れ込む。
アヤ
「あ゛~~~~……
お酒ほんと嫌い……」
原慧
「なら、なんであんなに飲んだ」
アヤ
「仕事のため……」
原慧
「なるほど」
短い沈黙。
原慧
「その“仕事”には、名前があるのか?」
アヤ
(反射的に)
「あるわよ、“――”」
アヤが急に止まる。
原を見る。
アヤ
「……あんたには関係ない」
原がわずかに笑う。
だが、その空気は長く続かない。
すぐに部屋の空気が変わる。
原慧
「センは知った」
沈黙。
原慧
「ミナのネックレスのこと……
全部、話した」
アヤが勢いよく身体を起こす。
完全に言葉を失っていた。
アヤ
「はぁ!?
ケイ、あんた正気!?
全部台無しになるかもしれないのよ!?」
原慧
「分かってる」
アヤ
「じゃあ、なんでそんなことしたの!?
あのガキは、坂井に近づくための唯一の手段だったのよ!」
原慧
「センは、自分の家族を憎んでいる」
(沈黙)
……俺たちと同じくらいにな」
アヤ
「ただの反抗期のガキでしょ。
それ以上でも以下でもない」
原慧
「違う」
原の声が低くなる。
原慧
「もしセンが、自分の意思で俺たちを選べば――
酒井隼人はすべてを失う」
アヤの動きが止まる。
言葉の意味を、正確に理解した。
アヤ
「……その代わり、あの子も全部失う」
原は椅子へ腰を下ろす。
顔を伏せたまま。
アヤは長く息を吐く。
悲しそうに。
だが、現実的に。
アヤ
「相手は綾柳組の組長の息子よ」
(沈黙)
「もし失敗したら?
もしセンが私たちを選ばず、全部父親に話したら?」
原はしばらく黙っていた。
やがて静かな声で答える。
原慧
「センは養子だ。
父親を憎んでる。
あいつの中には、何かある」
その瞬間。
アヤが笑う。
冷たい笑み。
まるで、この瞬間を待っていたみたいに。
アヤ
(遮るように)
「へぇ?
本気でそう思ってるんだ」
原がゆっくり顔を上げる。
困惑していた。
アヤは机の上のファイルを掴み、乱暴に原の前へ置く。
アヤ
「おかしいと思わなかった?」
短い沈黙。
アヤ
「酒井隼人には、2000年に実子がいる。
酒井冷煌」
アヤは原を見つめる。
アヤ
「なのに2008年、十三歳の養子を迎える。
酒井ユウト」
さらに続ける。
アヤ
「その後、2013年。
五歳の子供――酒井センを養子にした」
原は何も言わない。
アヤが近づく。
その声が低くなる。
アヤ
「どうして酒井隼人が、二人も養子を取るの?
しかも、そのうち一人は実子より年上なのよ?」
原慧
「酒井に、婚外子が二人いたって言いたいのか?」
アヤ
「たぶん。
DNA鑑定でもできれば別だけど」
原の表情が険しくなる。
アヤはため息をつき、書類を片付けながら話題を変える。
アヤ
「レスベストメディアが社員向けのイベントを開くの。
酒井隼人も来るわ」
アヤの目が鋭くなる。
アヤ
「髪の毛一本でも手に入れば、チャンスはある」
短い沈黙。
アヤ
「……あんたを中に入れることもできる」
原はゆっくり立ち上がる。
窓際へ歩いていく。
街の灯りを見下ろしながら。
アヤ
「ただし――」
アヤの声が重くなる。
アヤ
「何年も待ち続けてきた復讐を、あんたの情で壊さないって約束して」
沈黙。
アヤ
「……人殺しの息子なんかのために」




