個人的な戦争
セン
(低く、だが確かな声で)
「……いいですよ。
やります」
短い沈黙。
その「はい」が、予想以上に重かったみたいに。
センは動かない。
その目には、確かな覚悟が宿っていた。
原慧
「――そうか」
前触れもなく。
原はわずかに顎を上げ、二本の指を自分の喉へ当てる。
まるで脈を測る医者みたいに。
だが、もちろん違う。
原慧
「サマン」
青いルーンが喉元に浮かび上がる。
生きた刺青みたいに、精密な紋様が浮かび上がっていく。
センは思わず一歩下がる。
身体が強張る。
セン
「……何してるんですか」
原はすぐには答えない。
代わりに、冷静な声で続ける。
原慧
「ミナ。
信夫を呼んで、俺の執務室で待っていろ」
センは眉をひそめる。
状況が掴めない。
そして原は、今度は右耳の後ろへ二本指を当てる。
原慧
「ヴィディヤ」
センの目が見開かれる。
原の右目の下に、ルーンが浮かび上がる。
微かに脈打ちながら。
原の瞳が、僅かに揺れる。
まるで、見えない何かへ焦点を合わせ直しているみたいに。
次の瞬間――
原の姿が消える。
センの視線が、慌てて部屋中を探す。
沈黙。
一秒。
長すぎる一秒。
そして――
原の声が、背後から響く。
落ち着いた声。
原慧
「サマンは通信系のルーンだ。
保持者との接触を可能にする」
センが勢いよく振り向く。
誰もいない。
声だけが移動する。
近くへ。
遠くへ。
部屋の中を滑るみたいに。
原慧
「ヴィディヤは……そうだな。
動物的な性質を持つルーンだ。
速度、感覚、そして直感的な反応を強化する」
突然。
耳元を風が掠める。
人間とは思えない速度。
その直後――
センの身体が、数メートル先まで吹き飛ばされる。
激しく床へ叩きつけられる。
センは苦しそうに身体を起こす。
口の中へ溢れた血を、床へ吐き捨てる。
原慧
「ルーンは全部で八つ存在する。
だが、実際に使われているのは六つだけだ」
センはすぐには理解できない。
何が起きたのか。
視界が揺れている。
原がゆっくり近づいてくる。
静かに。
圧を纏いながら。
原慧
「普通は、ここで“なんで”って聞くところだ」
センは息を整えながら、なんとか身体を起こす。
セン
「……なんでですか」
原慧
「それを聞いてくれるとは嬉しいな」
次の瞬間。
二度目の衝撃。
センの身体が再び床へ叩きつけられる。
全身に激痛が走る。
原慧
「残る二つのルーンは、特別危険だ。
言ってしまえば――
悪役の超能力みたいなものだな。
(沈黙)
世界そのものを混乱へ落としかねない。
だから、とっくの昔に禁じられた」
センは顔の血を拭う。
原が、いつの間にか目の前へ現れる。
穏やかな笑みを浮かべながら。
原慧
「……おや。
その目は、怒ってるのか?」
センは答えない。
次の瞬間。
原が一気に距離を詰める。
襟元を掴み、そのままセンを床へ叩きつける。
凄まじい力。
センは息を失う。
苦しそうに喘ぎながら、半身を起こす。
顔は腫れ、口の中には血の味が広がっていた。
原慧
(鋭い声で)
「怒っているのか?」
センは答えない。
原慧
(楽しそうに)
「お前の拳は強いと聞いている。
あの少年……
お前が前の学校で半殺しにした奴だ。
やっと昏睡状態から目を覚ましたのか?」
その瞬間。
悪寒が、センの背筋を走る。
意識が揺らぐ。
目が見開かれる。
脳裏に浮かぶ。
少年を殴る自分。
血飛沫。
止まらない拳。
センの意識が揺らいだ、その瞬間――
原は、驚くほど自然な動きでセンをひっくり返す。
身体が床へ叩きつけられる。
肺の空気が押し出される。
センは立ち上がろうとする。
挑むような目で。
だが――
原はもう目の前にいる。
静かに。
揺るがず。
原慧
「怒っているのか?」
センは睨み返す。
それでも、反撃はできない。
原は、その様子をどこか面白そうに眺めている。
そして――
視界が黒く染まる。
センの身体が崩れ落ちた。
意識を失いながら。
***
レスベストメディア本社。
夜。
アヤは半分眠そうな目で、パソコンへ向かっている。
オフィスには、まだ数人だけ社員が残っていた。
荷物をまとめ、帰る準備をしている。
アヤはちらりと彼らの方を見る。
アヤ
(小声で)
「早く帰ってくれないかな……
待つの、もう限界なんだけど……」
なんとか画面へ集中しようとする。
だが、疲労が限界に近い。
椅子に身体が沈み込む。
頬杖をついた腕も、もうほとんど役に立っていない。
その時――
画面に警告が表示される。
『武田副市長邸にて爆発発生』
アヤは勢いよく顔を上げる。
心臓が速く打ち始める。
彼女は直近の事件一覧へ目を走らせる。
・黒田グループへの破壊工作未遂
・シンブンタイムズ機密文書流出
・デイリーニュース社用車爆破事件
アヤは眉をひそめる。
アヤ
(小声で)
「全員、坂井隼人の反対派……
偶然にしては出来すぎてる」
アヤは最後にもう一度、周囲を見渡す。
オフィスの照明が、一つずつ落ちていく。
最後の社員たちも帰っていく。
そして――
ついに一人になる。
アヤは深く息を吸う。
ジャケットを閉じる。
そして、非常階段へ向かった。
アヤ
(小さな声で)
「よし……八階。
陈様のオフィス」
静かに階段を上っていく。
足音だけが、人気のないビルへ微かに響く。
八階へ辿り着く。
アヤは慎重に扉を開け、暗い廊下へ出る。
誰もいない。
アヤは、陈様のオフィスの方を見る。
標的確認。
ハタ シオ
「おーい!」
その瞬間。
廊下の自動照明が点灯する。
アヤが凍りつく。
目が大きく見開かれる。
(やばっ……!
早く言い訳……!)
アヤは慌てて振り返る。
男がこちらへ歩いてくる。
ハタ シオ
「あっ、あなた!
えっと……あー……
確か、“独身”の人ですよね?」
アヤの顔が一瞬で赤くなる。
羞恥が一気に押し寄せる。
何か言おうと口を開く。
だが、言葉が出てこない。
シオが吹き出す。
ハタ シオ
「その……
もしよかったら、食事でもどうですか?」
アヤは瞬きをする。
驚いている。
やるべき任務がある。
果たすべき役目も。
それでも――
シオの笑顔。
その笑顔に、抗えない。
少しの沈黙。
そして、アヤは小さく頷く。
アヤ
(諦めたような、半分笑った顔で)
「……はい。
いいですよ」
ハタ シオ
「よかった。
じゃあ、行きましょうか」
アヤは最後にもう一度だけ、陈様のオフィスを見る。
果たすべき任務。
――だが今夜だけは。
勝ったのは、シオだった。
***
薄暗い提灯に照らされた、小さな料理店。
アヤはハタ シオの向かいに座っている。
出来立ての料理の香りが、 シオの匂いと混ざり合っていた。
アヤはメニューへ集中しようとする。
だが、その視線は誤魔化せない。
彼女は、彼の細かな仕草を一つ残らず見てしまう。
ジャケットの畳み方。
笑った時に宿る目の光。
顎のライン。
正確に箸を動かす指先。
アヤ
(小声で、独り言みたいに)
「なんなの……
どうしてこんな……その……」
途中で言葉が止まる。
アヤは慌てて小さく頭を振る。
頬が熱い。
ようやく、任務へ意識を戻す。
アヤ
(何気ない調子で)
「そういえば……
レスベストメディアには、どれくらいいるんですか?」
シオ
「ああ……もう数年ですね。」
アヤは頭の中で、その言葉を一つずつ記憶する。
言い方。
間。
視線。
全部。
アヤ
「……仕事、好きなんですか?」
シオは料理を一口食べる。
ゆっくり噛み、それから答える。
シオ
「慣れますよ……。
でも、大事なのは――
どうしてそれをやるのかってことです
(間。彼女を見つめながら)
エミコさんは?」
そう言って、彼はアヤを見る。
真っ直ぐに。
アヤは不意を突かれる。
その視線に。
その距離感に。
心臓が速くなる。
アヤ
「えっ……
わ、私は……その……
今のところは、悪くないです」
言った瞬間、自分でも恥ずかしくなる。
アヤはすぐ、小さな笑みで誤魔化した。
シオが、少し笑う。
その反応が面白かったみたいに。
シオ
「ゲームのルールに慣れるには、少し時間がかかりますからね」
アヤ
「レスベストのルールって……
かなり厳しそうですね」
シオ
「そうですね。
でも、それだけの理由がある。
この国で一番のメディアですから」
アヤは軽く視線を逸らす。
息を整える。
そして、自然を装いながら話題を変える。
アヤ
「酒井会長って……
すごく意志の強い人なんですね」
シオ
「俺の持論ですけど――
一番壊れてる人間ほど、執念深いものですよ」
アヤ
「どういう意味ですか?」
シオ
「例えば酒井会長。
両親を亡くして、孤児として育って……
全部一人で築き上げた。
それで今や、この国でも有数の影響力を持つ人間ですからね」
アヤ
「確かに……
でも、それだけ成功すれば敵も増えそうです」
シオ
「でしょうね。
ただ最近は、その敵同士が勝手に潰し合ってくれてますけど」
アヤは、ぎこちない愛想笑いを漏らす。
アヤ
「ですよね……
黒田グループへの破壊工作未遂に、シンブンタイムズの機密流出、デイリーニュースの爆破事件……
それに、副市長邸の爆発まで」
シオ
「警察は、シンブンとデイリーがお互いを潰し合ってると見てるみたいです。
こっちとしては助かりますけどね」
アヤは笑顔を作る。
だが頭の中は、激しく回転していた。
アヤ
「ええ……
本当に、“助かります”ね」
***
レスベストメディア本社から数ブロック離れた、人気のない路地。
その一角にある廃ビル。
荒れ果てた一室の壁には、新聞の切り抜きやメモが無数に貼られている。
そして中央には、巨大な地図。
デイリーニュース。
シンブンタイムズ。
副市長邸。
そして――レスベストメディア。
複数の標的が、赤い線で繋がれていた。
薄暗い部屋の奥。
一人の影が、窓越しに街を見下ろしている。
背を向けたまま。
音はない。
無駄な動きもない。
ただ――
次の一手を準備する者だけが持つ、冷たい集中。
シェイド。
その時。
大柄な男が部屋へ入ってくる。
シェイドよりもさらに大きい。
顔は暗闇に沈んだまま。
だが、その圧倒的な体格だけで本能的な恐怖を感じさせる。
男
「俺に会いたかったのか、シェイド」
シェイド
「セイラム。
計画変更に不満があると聞いた」
セイラム
「俺はあんたに従うだけだ、シェイド」
わずかな沈黙。
セイラム
「ただ……
今回の変更は、少し個人的すぎる気がしてな」
シェイド
「個人的ではない戦争など存在しない」




