鏡の木
センは、校舎の裏手――高台へと続く濃い茂みの中を、足音を殺しながら進んでいく。
足元の葉がかすかに軋む。
湿った土と、朽ちかけた葉の匂いが空気に混じっている。
わずかな動きでさえ、静寂の中に響いてしまいそうだった。
まるで、この場所そのものが息を潜めているかのように。
やがて――
暗がりの中に、巨大な影が浮かび上がる。
一本の、大樹。
その枝は夜空へと大きく伸びている。
枝々には、いくつもの鏡が吊るされていた。
淡い月明かりを受け、鈍く光っている。
揺れるたびに、冷たい光の破片が周囲へ散る。
闇を切り裂くように、無数の欠片が浮かび上がる。
それはどこか、生きているかのようで――わずかに、脈打っているようにも見えた。
木の周囲の地面には、銀色の光が点々と散らばっている。
幻想的でありながら、不気味さを孕んだ空間だった。
センは足を止める。
背筋を、冷たいものが走る。
微細だが、確かに存在する振動。
理解できない感覚。
それでも――
惹かれている。
身体じゃない。もっと奥の方で。
まるで、自分の中の何かがこの場所を“知っている”かのように。
あるいは――こちらが“認識されている”かのように。
一歩。
また一歩。
進むたびに、足が重くなる。
空気が、濃くなる。
正体の分からない何かが、この場に満ちている。
木から数メートルの距離で、センは立ち尽くす。
息が詰まる。
鏡の中に、自分の姿が映る。
歪んで、分裂して、何重にも。
それでも――
足が、止まらない。
引き寄せられるように、さらに一歩。
その瞬間――
激痛が、全身を貫く。
センは膝をつく。
視界が歪む。
意識が、引き裂かれる。
――ビジョン。
落ちていく女。
巨大な鏡が、ひび割れる。
次の瞬間――
砕け散る。
無数の破片へと。
――目。
男の目。
瞳孔が、広がる。
さらに。
さらに。
すべてを飲み込むまで。
黒。
完全な闇。
――そして。
虚無。
果てのない空間。
暗闇の中に、無数の光点が浮かんでいる。
星のように。
あるいは――結び目のように。
繋がっている。
脈打っている。
センの呼吸が止まる。
その腕に――異変。
皮膚の下で、光が走る。
青い線が浮かび上がる。
細く、繊細な線。
ゆっくりと広がっていく。
まるで糸のように。
まるで網のように。
――別のビジョン。
五歳の少年。
机の下で、身体を丸めている。
耳を塞ぎ、震えている。
押し殺した叫び。
――そして。
一人の男。
二十八歳。
血に染まった顔。
動かない身体。
その上に――
十五歳の少年。
セン。
涙が溢れている。
叫ぶ。
セン
「ユウト!!」
――すべてが、砕け散る。
センは荒く息を吸い込む。
水面に顔を出したように。
心臓が暴れる。
手が震える。
腕の下、青い線がまだ脈打っている。
やがて、ゆっくりと消えていく。
センは息を呑む。
腕を掴む。
強く擦る。
何かを、剥がそうとするように。
呼吸が乱れる。
ふらつき――
後ろへ倒れかけた、その時。
静かな声。
原
「私なら、触れない方がいいがね……」
セン
(息を乱しながら)
「……なんなんだよ、これ……」
原校長は、かすかに口元を緩める。
視線は木へ。
原
まあ、見た感じは木だな。」
センは笑わない。
その目には、明らかな恐怖が宿っている。
原
「何か、見えたか?」
センは言葉を失う。
迷いがよぎる。
嘘をつくか――それとも。
わずかな間。
原
(少し声を落として)
「この木が、なぜこんな場所にあると思う?」
(間)
「有毒な物質を放っている。
吸い込めば……そうだな、軽い幻覚に近い状態になる」
センは一歩後ずさる。
心臓の音が、耳の奥で鳴り響く。
手のひらが汗ばむ。
息が重い。
空気そのものが、肺にのしかかるようだった。
セン
(息を整えきれず)
「……なんでここにいるんですか。
それに……こんな時間に寮抜け出してる俺に、なんで怒らないんですか……?」
原は夜空を見上げる。
無表情のまま。
原
「怒る?」
(わずかな間)
「予測できることに、いちいち腹を立てる趣味はない」
センは眉をひそめる。
セン
「……どういう意味ですか」
原は視線を外さない。
原
「さあな……
決まって、来るべきでない場所に現れる人間というのは、いるものだ」
沈黙が落ちる。
重く、居心地の悪い間。
やがて原は、それ以上何も言わず、静かに踵を返す。




