第77話 稼業
迷宮の入り口に足を踏み入れ、その空気を鼻から取り入れると頭の芯が冴え始める。
これまで何度も味わった感覚だが、何度でも新鮮な高揚を感じる。
もちろん、それこそが危うい。
この世界に来た当初はこの空気に陶酔するままに身を委ねていたが、帰りを待つ人を得た以上、もうそういう訳にはいかないのだ。
さて、そうなると…。
これから俺には二つの進行ルートがある。
一つはこれまで同様に1階層ずつ順に深く潜っていくルート、もう一つはエレベーターで一気に4階層まで潜るルートだ。
そして、俺は迷わず前者のルートを選択する。
この深い陶酔感をもたらす迷宮の空気を、いきなり深層まで取り入れてはならない。
これはちょうど潜水の要領と逆で、少しずつ身体を慣らしながら、迷宮の暗闇に理性を溶かしてしまわないようにゆっくりと進んでいくべきなのだ。
まあ、潜水と逆なので戻るときにはエレベーターを使わせてもらうが。
こうして俺は、潜るときは1階層ずつ、戻るときはエレベーターで一気に、という探索方針を固めた。
地下1階層、地下2階層、地下3階層と徐々に迷宮の空気に慣れながら、同時に新たな漂人の来訪や、はたまた他のパーティが危地に陥っていないかを探りながら進む。
幸い、今回は何らの異常も感じることは無かったし、知り合いのパーティは一つも探索中ではないようだ。
俺は最短ルートにいる魔物のみを刈り取っては、魔石と戦利品を回収していく。
ちなみに、戦利品と言っても硬貨や宝石のみ集め、巾着に入らないサイズの宝飾品や貴金属類は無視だ。
これらの換金性の戦利品についても、より深い階層の方がより高価な物が得られると分かって来た。
限られたマジックバッグの容量は、より深い階層で得た戦利品に取っておくべきである。
俺はこれまで金銭的な成果にはさほど頓着してこなかったが、子供が10人も生まれてくるとなれば話は別である。
この世界の育児や教育にどれほどの金銭が必要なのか知らないが、多くて困るということはあるまい。
「…ふふ」
つい苦笑が漏れてしまう。
なんだか、この世界に来た当初の俺とはまるで別人になってしまったようだ。
その理由は簡単なことで、俺はもう苛立っていない。
元の世界にいた頃のような、身の置き所が無く、身に着けた技の使い道も無い、そんな虚無と焦燥とは無縁の世界なのである。
それどころか、日々闘いの中で技は磨かれ、身を置くべき、帰るべきところがハッキリと定まっている。
だから、俺はついに「生きたい」と思うようになった。
次々と危険な魔物を繰り出してくる迷宮に挑んでいたいし、俺の熱情を駆り立てて止まないエリカを抱きしめていたい。
そのためには、生きることが不可欠なのだ。
…地下4階層、ここからはもう一段ギアを上げて行く。
さらに下の階層に至る階段はすでに発見しているので、進行ルートの魔物を相手に最終調整をしていこう。
まずは、お馴染みネズミ人間。数は4。
俺は暗闇に潜んだままゆっくりと接近し、最初の一息で3体の首を刎ね飛ばす。
残る一体が驚愕して俺の姿を視線で追うが、俺はその視覚処理を許さない。
ゆるゆると真正面から接近しながらも、ネズミ人間の視覚の未更新領域を進み続け、そのまま恐怖に慄いている首を突いた。
「…?」
自身の死に気付かない様子のネズミ人間は、周囲をせわしなく警戒する姿のまま、塵と化していく。
…いいぞ、俺の姿を見ないまま逝ったようだ。
こいつは視覚処理のクロックが早くも遅くもないので、問題なく死角に入ったままの勝利に成功した。
あとはもっと複雑な死角を持つ魔物や、あるいは複数の魔物に対していっぺんに死角に潜ることも試してみよう。
特に後者は難しい、それぞれの死角が重なるほんの一瞬を捉える必要があるし、そもそも都合よく重ならないタイミングも出て来てしまう。
そうした場合に、いかに効率的に次の周期を捉えるか、いかにこちらを再発見された場合に少ないリスクの位置を確保するか。
まるで囲碁や将棋のような、何手先までも読み切る緻密さが求められる。
…そういえば爺ちゃんは囲碁も将棋も強かったな。
いつも面白く無さそうなしかめ面で盤に向かって研究していたが、なるほどあれも鍛錬だったのか。
俺もやるか。
この世界に囲碁や将棋に似たボードゲームがあればいいんだが。
地下5階層へ至る階段までに、あと4戦か5戦といったところだな。
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