第61話 顎ひげ
先ほどの投擲では6投のうち1投が狙いを外した。
目標であったオーガの眼窩を逸れ、それでも顔面を捉えてはいたが、しかしそれはオーガの巨大な頭部だからの話である。
もし普通の人間サイズであれば、頭部を捉え損ねた可能性もあるだろう。
では投擲が不完全だったかと言うと、実はそうではない。
棒手裏剣が俺の手から離れ空間を飛翔する極僅かな時間の間に、標的のオーガが動いたために着弾点がズレたのだ。
理論上あらゆる投擲武器において、いや火器すらもこの偏差による結果の不確実性から逃れることはできない。
…本当にそうだろうか。
それは、俺が元いた世界の常識ではないか。
つい今しがたの通算9回目の位階上昇により、俺の身体能力は元の2倍以上、実に214%にも達している。
そんな途方もない現象が起こる世界で、いつまで元の世界の常識に囚われているつもりなのか。
ひとたび投じられた棒手裏剣が、空中でその軌道を変えてはならないというルールは無いのだ。
どこからともなく俺の身体に満ちてくる魔力、それは魔物にも迷人にも等しく備わる。
そして、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませたならば、この世界そのものにあまねく存在していることに気付かされる。
空間中の魔力に干渉してはならないというルールもまた、ありはしないのだ。
「ふっ!」
右手に握った1本の棒手裏剣に素早く魔力を充填する。
そして脳裏にイメージを描き、ゆっくりと右手の握りを開いていく。
俺の右手による保持を失った棒手裏剣は重力の軛に引かれ、迷宮の石畳に向かってゆっくりと降下していく。
そう、ゆっくりと。
やがて、たっぷりと5秒ほどをかけて1m半ほどの高さを降下し終えた棒手裏剣は、こつんと音を立てて迷宮の石畳と接した。
…ふぅ。
本当は宙に浮かせることをイメージしたのだが、初めからそう上手くもいかないか。
ふふふ、まだまだ奥が深いじゃないか。
武器に魔力を充填しただけで奥義だの何だの舞い上がっていたが、ほんの切紙(初段)の技術に過ぎなかったわけか。
かくん、と膝が抜けて俺はよろめいた。
たったこれだけの事を実現するために、膨大な魔力を消費してしまっている。
またあの苦い滋養ポーションを飲まなくてはならないか。
それに、少しは腰を下ろして休息するべきだな。
いま俺は、気が逸っている自覚がある。
なぜならば、この技法を身に着けた時ついに、俺はあの迷人部屋の壁を超えられるだろう。
運否天賦ではない、真の意味での必殺が手に入るのだから。
俺は魔物のいない部屋を発見すると、例によって太刀を扉の持ち手に通して内側から封鎖する。
石畳に腰を下ろすと、想像以上に消耗していたのかドッと全身に疲労が襲って来た。
滋養ポーションを飲むことで本調子から5割程度のところまでは無理やり復帰できるため、ついついそれを繰り返してしまう。
しかし、身体の芯には澱のように少しずつ深い疲労が蓄積していくようだ。
魔力を活用した技法を取り入れた探索と言うのは、これまでよりも高いパフォーマンスを実現する一方で継戦性を難しくしている。
この点も、もっと向上しなくては。
あの迷人部屋を攻略する糸口は得られたが、迷宮の奥地で全ての力を出し尽くして、それでお終いとはいかないからな。
俺は何気なく顎を撫でて髭の伸び具合を確かめる。
探索を開始する前の、つるっとした感触はすでに失われ、ちくちくとした顎髭が時間の経過を主張している。
俺のこれまでの体験から推測するに、朝に髭を剃ったならばその日の内に髭の主張を感じることは無い。
つまり、1昼夜以上は確実に時間が経過していることを証明しているだろう。
この1mmのおよそ半分ほどの伸び具合は…、丸二日昼夜に近いくらいの時間経過だろうか。
いつもいつも探索はオーバーワークになってしまっているし、ここらで引き上げて地上で頭を整理しても良いかも知れない。
そのとき、ふと、心の片隅に置いたエリカが笑ったような気がした。
…そうだな、帰るか。
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