第137話 肩慣らし
早朝の静謐な空気の中、髭を剃り終えた俺は井戸の冷水で顔を洗う。
ぴりりと気が引き締まったところで、エリカが手渡してくれる手拭いを俺は受け取った。
水滴を拭い去った俺の顔をエリカは様々な角度から覗き込み、指でなぞってヒゲの剃り残しがないことを確かめてくれる。
そしてエリカとヴィクトルが次々と俺に装備品を装着していくと、黒尽くめの迷宮探索装備完了である。
俺はエリカをやさしく抱き締めてささやく。
「…今回もなるべく早く帰る」
「…お待ちしています」
よし、これで…ん?
エリカがなお俺を抱きしめたまま離さない。
ふふ…そう心配するな。
俺は必ず帰って来るぞ…。
「…女性に軽々しく贈り物をしてはいけませんよ? それから、…迷宮で楽しくなっても私を忘れないでください」
むぐっ…。
今回こそは何のトラブルも無く、早期に帰還して信頼を高めなければ。
ともかく俺はエリカの忠告を胸に刻み、永遠の愛を誓って口づけを交わした。
「わんっ!」
おっと、俺たちが庭にいるもんだからバティスタも起きて来たか。
お前も俺の留守の間は頼むぞ。
ヴィクトルの懐に潜む庚と辛からも任せておけと言わんばかりの意思が伝わって来て、俺は頼もしさを得て自宅を出発した。
早朝の空気の中、橋を渡って南区を出た俺は真っすぐに迷宮入り口のある広場を目指す。
尾行の気配は…ない。
俺は頭上で両手をクロスさせてセルヒオに合図を送った。
すると野良犬が吠える声に似せたセルヒオの返事があって、彼は自宅の警備に戻ったようである。
ふむ…。
そうすると自宅周辺に時折感じる気配は、組織的な物ではなく単独のコソ泥ということだな。
いくらなんでも窃盗の未遂犯というだけで斬って捨てるわけにもいかんし…いや、そもそも厳密には未遂犯ですら無いからな。
まあ、地道に自宅の警備を厚くしていくしかないか。
「よう、相変わらず朝が早えなお前は」
迷宮入り口を固める衛士たちの中はウーゴがいて、近況を語り合った後に俺は迷宮へと足を向けた。
…そういえば、コイツもウチに雇われる気はないだろうか?
領主の兵を引き抜いていいのかは分からんが、それも次に戻ったらエリカに相談してみるか。
迷宮の石階段を降っていると、地上での雑事が一つずつ脳裏から押し出されていくような気がして…気持ちいい。
うーん、やはり俺は地上不適合者なんだろうか…?
いや、余計なことは考えるまい。
今は迷宮最深部の、あのあまりにも強大な気配を放つ魔物どもを如何にして仕留めるか…。
それだけを考える、刃となるのだ。
懐では6枚の手裏剣たちがそうだそうだの大合唱で…、主戦派しか連れて来ていないからなおさら好戦的意見ばかりになってしまったな。
いや、それもいい。
子供じゃないんだから、自分で判断して自分で帰還タイミングを見極めるまでだ。
もちろん女性に余計な贈り物もしない。
男だけにしよう。
「…?」
俺の手刀で首を斬られたコボルトは、急に視界が地面に落ちたことに不思議そうな表情を浮かべたまま塵と化していく。
5匹が5匹とも同じ表情をしているので、どうやら今日はいいキレが出ていそうだ。
あっという間にエレベータにたどり着いた俺は、迷わず「9」のボタンを押下した。
軽い浮遊感の中で装備品を最終確認し、エレベータの扉が開いて濃厚な迷宮の空気が押し寄せて来ると…頭が一気に澄み渡る。
…まずは、9階層で肩慣らしだ。
目の前に開いている10階層での入り口に心が惹かれそうになるが、ここは我慢して手近な魔物の気配へと向かう。
ふむ、扉の向こうに巨人。
これは…白霜巨人の気配だな?
数は4体で、こいつらはほとんど太刀の的でしかないから丁度いい。
…いや、だから俺のウォーミングアップなんだって!
お前らは後でちゃんと投げてやるから!
肩口で扉を破るようにして飛び込んだ俺は、迅雷となって右に左に三日月の太刀を振るう。
「「ゴッ!?」」
「「グガッ!?」」
両足首を切断された白霜巨人が次々と倒れ込んで来るのを迎え撃ち、迷宮の床に尻餅をつく前にすべて首を刎ね飛ばす。
よし、イメージ通りの動きが出来たな…おっと、位階上昇か。
身体の奥底から計り知れない力が湧き上がって来る。
…やはり、前回から位階上昇時の能力向上が高まっているな。
第12位階まではおよそ1割ずつの向上という感覚だったが、ここ2回はおよそ2割の向上だろう。
つまり計算上では…、元の身体能力に310%の向上が加わりおよそ4倍ということになる。
まあ、意味不明であることは今さらなのでいいだろう。
さて、これでまたイメージと動きに多少のズレが出てしまったので、次も念入りに刀で…。
…だから!
俺がちゃんと動けないとお前らも困るだろって!
ずるいだと…!?
なにがずるいものか、そもそも俺が闘うのが当たり前であって…
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