第110話 退散
さて、焼け焦げた綿甲も新しいものに買い替えたし、棒手裏剣もなるべく刀剣を鍛造するようにして槌数を増やす工法を鍛冶屋に試してもらったぞ。
手に取って魔力を注いでみると…うんまあ、これまでよりは幾分マシかなというくらいではあるが。
なんにせよこれで、再度の迷宮探索に出発する準備が整った。
今回は王家の使者との折衝があったり、ヴィクトルに本格的に忍術の基礎を教え始めたり、煙玉の無害化を目指して夜中にこっそり実験を繰り返したりと、地上でもやることが多かった。
ちなみに煙玉の改良であるが、当初は完全無害化を目指して衝撃燃焼剤の銀フルミネートへの変更を試してみたのだが、これは上手くいかなかった。
いや、衝撃燃焼剤としての性能は高かったのだが…、反応が鋭敏過ぎて運搬に適さなかったのだ。
マジックバッグの中で暴発されては意味がないからな…。
そこで次は小火器の雷管に使用されるようなDDNP (ジアゾジニトロフェノール) の生成が出来ないか検討したのだが…、これはヒドラジンが入手できなかったので不可能であった。
いっそのこと窒素化合物で強力な爆弾にしてしまおうかとも思ったが、これもまた化学工場のような設備無しにハンドメイドすることは難しい。
ということで不本意ながら俺は鉛フルミネートの継続使用を決め、苦土を混合することで燃焼温度を高めて有毒ガスの軽減を目指すことにした。
これは相当程度上手くいったのだが…苦土を混ぜたせいで煙玉の発動時に眩い発光を伴うようになったぞ…。
うーん、姿を隠すために使用するのが煙玉なのに、どうしてこんな目立つ仕上がりになってしまったのか…?
…まあいい、これも今後の課題としていこう。
早朝の空気の中、俺は井戸脇で髭をキレイに剃り落とした顔を洗う。
振り返ると起床しているのはエリカとヴィクトルだけで、あとの家族は寝静まった中での出発となった。
…今回は前日に朝からエリカと東区に繰り出して、昼間のうちに十分に熱情を解放しておいたからな。
おかげで早朝の探索出発ルーティンが帰って来たというわけである。
「…お気をつけて」
俺に綿甲の袖を通しながら、エリカが無事を祈る言葉をかけてくれる。
抱擁で返答した俺は、王家の使者の対応など残る地上でのアレコレをエリカに頼み、最後に口づけして必ず帰還することを誓う。
「ぼーしゅりけん、練習しておくからね!」
俺の装備類を抱えたヴィクトルが一つ一つ手渡してくるのを、俺は素早く身に帯びていく。
打刀と脇差を左腰に閂差しにして、太刀を背中に担いで、マジックバッグを腰の後ろに回して固定した。
ふと視線を向けると、庭に打ち込まれた丸太には金属鎧が被せられていて、最近はヴィクトルがしょっちゅう棒手裏剣を投げつけるので凸凹が激しくなっていた。
ヴィクトルは早くも投擲の基礎を身に着け始めていて、やはり俺と同じクラスの恩恵が働いていることを感じさせる。
…まあ、要するに俺の鍛錬をなぞればよいのだから教えやすくて助かる。
次に地上に戻って来たときにはどのくらい上達しているかな…?
鎖帷子を頭まで被ると、エリカから頭巾を受け取って重ね、首元に濃紺のマフラーを巻きつけたら全身黒ずくめの異世界忍者の完成である。
キラキラとした瞳で俺を見上げるヴィクトルの頭を撫で、もう一度エリカと抱擁を交わして永遠の愛を誓った。
さあ、行くか。
まだ人々が活動を開始する前の静かな南区を歩み、区境の川にかかる橋を越えて迷宮の入り口がある広場を目指す。
…と、気配を隠す気もない待ち伏せがあるな。
広場で俺を待ち受けていたのは王家の使者でやって来た二人、近衛騎士のナサリオと宮廷魔術師のパストラだ。
まあ、今日が迷宮探索の出発日であることは周囲にも隠していないので、待ち受けられるのが意外ということはないが。
「やあ、それが君の完全武装というわけだね。…なるほど、パストラが変な気を起こすような隙が全く無くて助かるよ」
「な、なによ…。その気になればあんなの…、ひっ!?」
俺が殺気の籠もった一瞥を向けると、宮廷魔術師のパストラは顔色を真っ青にしてナサリオの後ろに隠れてしまった。
…さて、何の用だろうか。
立ち会えと言われても一向に構わんが…、エリカに押し付ける後始末がまた増えてしまうな。
「いやいや…! そんなつもりは毛頭ないから、その気勢を収めてくれないか? 私は栄達したいからね…、こんなところで死ぬつもりはないよ!?」
…こいつも本心の読みづらい男で、俺に隙があればいつでも腰の剣を閃かすのだろうが。
どれほど使えるのか見てみたい気持ちもあるし、いっそ誘ってやろうか…?
俺はあえて剣気をバラバラに乱して、あらゆる角度に隙を作って見せる。
どうだ…、どこでも打ち込めそうだろう?
首でも胸でも…腹でも股座でもいいぞ。
「…退散! 退散するからもうやめてくれ…! 私たちは君が稀代の探索者だと殿下に報告してお役目は完了だよ。…願わくば、もし君が大いなる力を得たとしても、王国の味方でいてくれれば言うことはないね」
ナサリオは両手をヒラヒラとさせながら本当に退散していく。
パストラも慌ててその腰にしがみついて去り、後には誰もいなくなった。
誰もいなくなったんだが…、置き土産というべきかなんと言うべきか。
…俺の鼻が空気中の微かなアンモニア成分を捉えている。
あの女、エリカを小便臭いなどと罵るから罰が当たったか…ざまあみろ。
それにしてもナサリオとか言う騎士、やはり相当な使い手だと思うのだが…つまらん。
まあいい、この分も迷宮で愉しんで取り返そう。
俺は衛士たちに声をかけると、迷宮の石階段に足を踏み入れた。
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