08 銀の絶焉獣
その日の朝、ギルドの空気は、これまでになく張り詰めていた。
扉が開いた瞬間、流れ込んできたのは冬の嵐のような冷気と、肌を刺すような圧倒的な強者の覇気。
あまりのプレッシャーに、ホールで朝食をとっていた冒険者たちの手がピタリと止まり、一部の者は武器に手を伸ばしかけたほどだ。
現れたのは、もちろんレオンさんだ。
けれど、今日の彼はどこか様子が違っていた。
いつも以上に深く被ったフードの奥で、瞳が異常なまでの決意を秘めて燃えている。
その背には、巨大な……あまりに巨大すぎる、血抜きされた「肉の塊」が背負われていた。
「レ、レオンさん……? おはようございます。それは……?」
私が恐る恐る尋ねると、彼は重い足取りでカウンターの前に立ち、彫刻のように美しい顔をわずかに赤らめて、甘やかな低音で囁いた。
「……ユフィ。これを受け取ってほしい」
ズドンッ!!
というギルドの床が抜けるかと思うほどの衝撃とともに、カウンターの前に鎮座したのは、美しい白銀の毛並みを一部残した、見たこともない巨大な獣の腿肉だった。
大の大人三人がかりでも抱えきれないほどのサイズ感。
そして、生肉であるにもかかわらず、表面からチロチロと青白い魔力の光が漏れ出している。
「これは……?」
「『白銀の絶焉獣』だ。君と……その、食事をしたいと思ってな。……材料は、俺が用意した」
――ギルドの中が、一瞬で凍りついた。
真っ先に叫んだのは、奥からすっ飛んできたギルドマスターのガルドさんだった。
「お、おいおいおい! ちょっと待て! それはSSSランク魔物じゃねえか! 北の霊峰にしか生息しない、一個小隊が総出で挑んでも壊滅するレベルの化け物だぞ! それを一人で狩ってきたのか!?」
ガルドさんの絶叫に、リュートさんも信じられないものを見るような目で続く。
「シルバー・ベヒモス……討伐難易度は測定不能。その肉は極上の美味だが、魔力濃度が高すぎて並の刃は通らないし、市場に出回れば金貨千枚は下らないはずだよ……」
「……朝の散歩ついでだ。鮮度が落ちる前に、君に食べてほしくて」
レオンさんは周囲のどよめきを完全に無視し、真っ直ぐに私だけを見つめている。
(――散歩ついでにとんでもない魔物を狩らないでください!)
前世の知識を総動員しても、この状況への最適解が見当たらない。
普通、誰かを食事に誘うなら「ちょっと美味しいお店を知っているんだけど」ではないのか。
なぜ、討伐難易度が測定不能の生肉が目の前にあるのか。
「す、すごい肉だ……! おい、これ一口食うだけで技能ステータスのレベルが何個か上がるぞ!」
どこからともなく現れたブロンさんが、目を引ん剥いてヨダレを垂らしながら肉に食いつこうとする。
「触るな。これは、ユフィのためのものだ」
レオンさんが一瞥し、わずかに殺気を放っただけで、ブロンさんは見えない巨大なハンマーで殴られたかのように後方へ吹き飛んでいった。
「レ、レオンさん、お気持ちはすっっごく嬉しいのですが……これ、大きすぎますし、ギルドのキッチンでも調理できないんじゃ……」
「……足りなかったか? ならば、次は『焔獄竜』の心臓を持ってこよう。あれなら少しは火が通りやすい」
「違います! 多すぎるんです!」
思わず叫んでしまった私に、レオンさんは目に見えてショックを受けたように、大きな肩をガクリと落とした。
捨てられた大型犬のような悲壮感が漂う。
「……そうか。意中の相手には自ら仕留めた最高の獲物を捧げるのが、最も誠実で情熱的な誘いだと教わったのだが……俺はまた、間違えたのか」
(――この人、もしかして、育ちが良すぎて常識がズレてるとか??)
「いや、でも流石にベヒモスは引くと思うよ」とリュートさんが小さくツッコミを入れる中、あまりの騒ぎに、グリゼルダさんが煙管をくゆらせながら呆れたように笑い出した。
「くふふ、不器用な坊やだね。ユフィちゃん、せっかくだ。ギルドのみんなでこの『伝説の肉』を焼いて、大宴会にしようじゃないか。それが丁重な応えになるよ」
「……宴会?」
レオンさんが不思議そうに首を傾げる。
「たしかに! 皆で食べれば、きっともっと美味しいですよ。レオンさんも、一緒に」
私が笑顔で提案すると、レオンさんの瞳に、パッと眩い光が灯った。
「君がそう言うなら……悪い気はしない。……いや、むしろ、君と同じ火を囲めるのなら、それが至福だ」
そんな気恥ずかしい台詞を真顔で言うのはやめて欲しい。
「よーし、そうと決まれば調理だ! だが……問題はどうやってこの肉を切るかだな。俺の大剣でも傷一つ付かねえぞ」
ガルドさんが困り顔で肉を叩く。
確かに、表面が鋼のように硬い。
「あ、それなら私に任せてください!」
私は前に出ると、巨大な肉の塊に手を触れた。
「【接続】、解除!」
私が思い描いたのは「骨と肉」そして「硬い筋と柔らかい赤身」の接続を解除するイメージ。
刹那、ぽろり、ぽろりと、見事なまでに美しい霜降りの一口サイズの肉片が、魔法のように崩れ落ちて大皿に山積みになっていく。
「なっ……SSSランク魔物の肉を、素手で解体しただと!?」
「すごいぜユフィ! まさに戦場の……いや、厨房の女神だ!」
冒険者たちが歓声を上げる中、レオンさんだけはなぜか誇らしげで熱烈な視線を、私に送っていた。
「次は【待機】!」
強火にかけた巨大な鉄板の上に肉を並べ、表面が香ばしく焼けた瞬間に熱と状態を【待機】で固定。
そのまま内側にだけじっくりと火を通し、最後に一気に解除する。
すると、肉汁を一滴も逃さない、究極のレアステーキが完成した。
「う……美味すぎる!!」
「なんだこの肉! 噛まなくても溶けるぞ!」
ギルド中が「ご馳走だー!」と爆発的な盛り上がりを見せる中、レオンさんは私の隣に陣取り、甲斐甲斐しく最高の部位ばかりを私のお皿に取り分けてくれた。
「さあ、ユフィ。もっと食べてくれ」
「あ、ありがとうございます。レオンさんも食べてくださいね?」
「俺は、君が美味しそうに食べている姿を見るだけで腹が満たされる」
その手つきは、剣を振るう時と同じくらい真剣で、そして極上に優しかった。
ギルドの皆と笑い合い、最高級のお肉を頬張る。
これ以上の幸せなんてない。
――しかし、私はまだ、気づいていなかった。
この「ベヒモスの極上ステーキ大宴会」が、調理の過程で途方もない魔力を上空に放ち、隣国にレオンさんの居場所を突き止めさせる「魔力の標」になってしまったことに。
そして、明日、隣国からレオンさんを連れ戻すための「最強の追手」がこのギルドにやってくることを――。




