03 騎士団長の敗北
俺の名はレオンティウス・アルヴェリア。
アルヴェリア王国の第二王子にして、王国騎士団の総責任者だ。
今、身分を隠してこの辺境の街ルシェルシェに潜伏しているのは、国境付近で蠢き始めた「不穏な影」を調査するためだ。
魔物の異常発生――それも、誰かが意図的に呼び寄せているかのような不自然な増殖。
もしこれが隣国による軍事的な徴候だとしたら、一刻を争う。
俺は王宮の退屈な政争を振り切り、一介の冒険者として、自らこの地に乗り込むことを決めた。
「……ここが、ルシェルシェか」
辿り着いた街は、石造りの小さな街だった。
王宮の磨き上げられた大理石の床や、息の詰まるような黄金の装飾とは無縁の場所。
まずはこの街の冒険者ギルドに入り、依頼をこなしながら情報を集めるのが最善だろう。
ギルドの重い扉を押し開けると、安酒と汗、そして男たちの熱気が渦巻く喧騒が俺を襲った。
喧騒をかき分け、カウンターへ視線を走らせた――その、刹那だった。
「ありますよ。ええと、街道の盗賊退治と、森の薬草採取、それから……」
凛としていながら、春の陽だまりのように温かい声。
そこにいたのは、亜麻色の髪を無造作に結び、エプロン姿で忙しなく立ち働く一人の少女だった。
俺の足が、根が生えたように止まる。
少女の指先の動き、首の角度、そして何より、荒くれ者たちを相手にしても崩れない、凛とした背筋の伸び方。
(……何者だ? この立ち居振る舞い、並の教育では身につかないはずだ)
辺境の受付嬢にはおよそ不釣り合いな、洗練された「貴婦人の残香」。
猛烈な興味が、俺の胸の奥で火を灯した。
俺は吸い寄せられるように、壁に貼られた高位魔物の討伐依頼を剥ぎ取ると、彼女の目の前へ歩み寄った。
驚かせたいわけではなかった。
だが、彼女が俺の瞳を見上げた瞬間、俺は自分の中に眠っていた「何か」が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「……受付は君か?」
「は、はい……ユフィと申します」
ユフィ。
その名を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「依頼を受けたい」
依頼書を差し出すと、彼女は慌てて内容を確認し始めた。そして――
「あの……これ、すごく危険な依頼ですよ? お一人で行くには、あまりに……」
彼女が、身を乗り出して俺を見上げた。
その青みがかった澄んだ瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。
(――心配? この俺を、か?)
王宮では誰もが俺を「無敵の騎士団長」として仰ぎ、あるいは「野心溢れる第二王子」として警戒する。
俺という人間の無事を心から案じる者など、一人もいない。
彼女は俺の素性も知らない。
つまり、ただの無謀な冒険者として、純粋に俺の身を案じている。
凍てついていた俺の心が、急速に熱を帯びていく。
「問題ない」
そう答えながら、俺は冒険者カードを提示した。
Sクラス。最高ランクの証。
彼女の目が驚きに見開かれる。
その反応すら、愛おしかった。
「えっとこちらに……お名前をいただけますか?」
「レオン――だ。ただのレオンだ」
「レオンさん、ですね。かしこまりました」
ペンを取った時、彼女の視線が俺の手に注がれた。
無数の傷跡。
剣を握り続けてきた証。
死線を越えてきた勲章。
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
署名を終えて顔を上げると、目が合った。
その刹那、彼女の頬が鮮やかな朱に染まる。
(……可愛いな)
不覚にも、そう思ってしまった。
「では、気をつけて。必ず、無事に戻ってきてくださいね」
その言葉が、俺の心臓を直撃した。
「……ああ」
それしか言えなかった。
その後の魔物討伐など、記憶にすら残っていない。
剣を振るっている間も、俺の脳裏にはあの亜麻色の髪と、潤んだ薄青の瞳が焼き付いて離れなかった。
夕方、報告のために再びギルドの扉を潜る。
「討伐を、完了した」
背後でガタイのいい冒険者たちが「半日で……!?」と騒いでいた気がするが、そんなことはどうでもよかった。
「す、すごい……! はい、報酬の金貨五枚です」
目を輝かせて見上げてくる彼女を前に、俺は危うく、その華奢な身体を抱き寄せてしまいそうになるのを必死で堪える。
もっと、彼女を見ていたい。
彼女の声を聞きたい。
帰り際、俺はたまらず立ち止まった。
何かを言いかけ、けれど、何を言えばいいのかわからずに言葉を飲み込む。
彼女がこちらを見ている。
俺は静かに背を向け、ギルドを後にした。
宿のベッドに横になっても、昂ぶる鼓動は一向に収まらない。
「……何をしているんだ、俺は」
王宮の喧騒から逃げて来たとは言え、名目上の任務がある。
国境の異変を調査しなければならない。
それなのに、頭の中は彼女のことでいっぱいだ。
あの笑顔。あの声。あの心配そうな眼差し。
「必ず、無事に戻ってきてくださいね」
その言葉が、何度も何度も胸の中で反芻される。
俺は生まれて初めて、敗北を知った。
これまで数多の戦場を駆け抜け、勝利を掴んできたこの俺が、名も知らぬ少女のひと瞳に、これほどまで無残に射抜かれるとは――。
「……明日も、行ってみるか……」
任務など二の次だった。
ただ、もう一度、彼女に会いたかった。
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