祓魔少女は魔を祓う
汽車は便利だ。小回りは利かないものの、この機械の発明は人間の移動速度を格段に向上させた。持ち手を握るこのガトリング砲も優れている。人の死を減らすコンセプトで作られた兵器はより大量の死を生む結果に終わってしまったが、今回はリチャード・ガトリングが夢見た通りの運用が可能だ。
一人の死で、大勢の人間の生が保たれる。ナポレオンは世界を戦果に包むつもりだ。いや、彼がやらなくてもマモンが戦争を起こすのだろう。いずれにせよ防げない、歴史的に意味のない行為なのかもしれない。
だが、奴を野放しにはできない。責任は取ってもらわなくてはならないし、何より怪物が好敵手に飢えている。強すぎて心が枯れた悪魔のように。
だが、ローズマリーは悪魔の知恵比べのような間接的な方法は取らない。直接対峙して、祓うのだ。
かつての祓魔師たちや、ウェイルズの家系がそうしてきたように。
祓魔少女として、魔を祓うのだ。
人によっては心地よさすら感じる重厚なリズムを聞きながら、ローズは機関室の方へと呼び掛ける。結局無断で同行してきた少年に。……自分より年下だが、やはり男だ。ローズは彼を侮っていた。
「何でしょう、ローズさん」
ケイが振り返って話しかけてくる。列車は無人の客室をいくつも抱えていた。何者かに攻撃を受けた場合のダミーとして利用する算段だったが、敵に見破られているともローズは考えている。だから、あらかじめ切り離しが容易くなるように細工を施していた。たくさんの爆弾を積み込んで。
「いざとなったら逃げて。いい? もう奴は堕落なんて方法を取らない。容赦なく殺しに来るわ」
「期待には応えましょう……できるだけ」
聞きたかった言葉と聞きたくなかった言葉が入り混じる。不安を露骨に顔を滲ませたローズは機関砲から離れて機関室に赴く。シュタインが機関助士として石炭を火室の扉へ投炭している横で操縦するケイの隣へと回り込み、疑問を抱く彼の右頬へキスをした。狼狽するケイの顔を間近で見つめる。先程の印象とは違い、彼はすっかり年下の子どもへ戻っていた。
「約束。死なないで」
「……善処しますよ、ローズさん」
「そうね、それがいい。もっと多くを求めるなら」
顔を朱色に染めるケイの前から立ち去り、ローズは少しだけ彼に可愛らしさを感じた。生憎ローズは初心な女ではない。時として、こういう大胆なアプローチが男の弱点であり、女の強さであることをよく知っている。
ケイ自身に悪感情は抱いていないし、口同士ではないから、不純というわけでもないだろう。今更そんなことはどうでもいいか、とローズは恋愛ごっこから戦うための準備へと戻る。
機関砲へ付き、じっと街並みを観察する。美しい街を。しかし、その評価は常軌を逸している。
街は燃えていた。煌々と、幻想的に。神々しさすら感じる眩さで。
ナポレオンが燃やしたのだ。革命の炎だ。燃えているのは街だけでなく、もはや国そのものも含まれる。それだけでは飽き足らず、さらに苛烈で暴虐的な振る舞いを彼はするつもりだった。それをローズが止める。祓魔少女として。教会として。
物質的な教会を崩壊させたとしても、まだ概念的な教会は生きていると奴に知らしめるのだ。
「……あれは」
信念を抱くローズは街中で蠢く影を発見した。一瞬ナポレオンかとも思ったが、それにしては数が多すぎる。瞬時に合点がいった。ミラ王女が堕落した時と同じ。王には配下が必要なのだ。自分の手足として動く存在が。
その人影へと目を走らせて――ローズはとうとう宿敵の姿を目撃する。が、その存在よりも注意を引いたのは、燃え盛る人影が操作する大砲だった。
「来るわッ!」
警告すると同時にガトリング砲の引き金を引く。ナポレオンが撃てーっ! と革命当時のように砲撃命令を飛ばすのと同じタイミングだった。
砲弾が客車を吹き飛ばす。着弾はしたが、全ての客車に爆弾は取り付けていないので列車が木っ端みじんになることはなかった。だが、これ以上爆弾をけん引し続けるのは危険だ。そう判断したのはシュタインも同様で、彼女は爆弾を積載した車両の切り離しにかかった。
「街中での砲撃……昔の再現かしら」
ナポレオンはフランス革命の時、街中で大砲を放ったことがある。王党派を鎮圧するためだ。
今回は教会を鎮圧するつもりなのだろうか。そして、革命を成し、世界の主として君臨する。玉座を簒奪するのだ。……コルシカ人がフランスの皇帝となったように。祖国を奪われたナポレオンは、まんまとフランスの皇帝となった。無論、皇帝になる頃には彼の瞳はもっと上を向いていただろうが、実質としてはそうなる。復讐心が全くなかったと言えば嘘になるだろう。ナポレオンはコルシカ島を愛していた。同胞と敵対して敵であるはずのフランスに亡命を余儀なくされたとしても、その想いは変わらなかったと聞く。
だが、だとするならば祖国を奪われたローズマリーがナポレオンを祓うのに何ら問題があるはずもない。ローズも見据えるのはもっと高みだ。世界の救済。悪魔からの脱却。だが、やはりそこには個人的な干渉も含まれる。
ゆえに、ガトリングが弾丸の雨を旧式の砲台に振らせるのは、特に異常な出来事でもなかった。
あっさりと大砲を破壊し、ゾンビのような死人ごと吹き飛ばす。リチャード・ガトリングはこの運用方法を賛同してくれるだろうかと問いたいが、残念ながら彼と出会う機会はないだろう。ルソーに焦がれながらも先立たれてしまったナポレオンの気持ちに共感できた。
ローズとナポレオンはどこか……共通項のようなものがある。どちらも怪物だ。敵を恐れず、好戦的で、綺麗なものに吐息を漏らす。ナポレオンは大量の死人の前、血みどろの光景を目の当たりにして、美しいという感想を漏らした。恐らく、似たような感慨をローズも抱くだろう。実際、ローズが祓った人々はみんな綺麗だった。マリア先生も、マーセもリュンも、ウェイルズも。だが綺麗という感想と喜ばしいという感情は別物だ。
だからローズはナポレオンに銀の弾幕を張る。しかし青を基調とした軍服に身を包むナポレオンは恐るべき身体能力で回避して、フリントロックピストルを構えた。ただの古式銃が、驚異的な威力を伴って列車に命中する。後部の車両が大爆発を引き起こした。
「シュタイン……! ケイ、列車を止めて!」
「まだ行けます!」
「無理だから!」
ローズの悲痛な叫びはケイに届かない。彼は可能な限り接近を試みる。ナポレオンがいる場所の斜め前にいる形となっている機関車は、先に進めば進むほど敵と距離を詰めることができる。ナポレオンには不可思議な能力が備わっているので、いくら射撃の名手であるローズでも遠距離戦は不利を強いられる。近づけば近づくほど勝率は高まる。しかし、それは危険性も上昇することを意味する。大砲とピストルならば、ピストルの方が格段に狙いやすい。銃は小型になればなるほど取り回しがよくなる。普段ならばただそれだけのことだ。通常、ピストルの小口径で機関車を破壊することなどできない。だが今は、通常の法則などどこか遠くへ置き去りにされてしまっている。
フリントロックが、大砲以上の威力を発揮する。まさにそれは世界中の軍隊が開発中の新兵器に勝るとも劣らない武装だ。五十年以上前に廃れた武器が、数十年以上先の武具の威力すら超越する。再度撃発されて、またもや車両を木っ端微塵に砕いた。車中に仕込まれている火薬以上の火力だ。後部車両が一両ずつ次々に撃ち壊されている。
「ケイ! 脱出を!」
「ローズさんこそお先に!」
機関砲ではナポレオンを捉えきれない。側面に取り付けられたクランクを回すローズだが、皇帝は俊敏すぎた。これならばライフルで直接狙った方が幾ばくかマシだが、有効射程範囲外だ。
そしてそれだけで災厄は終わらない。ケイの叫びでローズは車両の進行方向を目視する。
「ビーストです!」
「スフィンクス……!」
「見たまえ! 線路の上に四千年の歴史が見下ろしている!」
エジプトのピラミッドを拝見し、感銘を受けた時のセリフをもじってナポレオンが叫ぶ。スフィンクス……戦闘よりも謎解きに重きをおく魔獣が線路を塞いでいた。こうなれば列車は放棄する他ない。ゆえにロープピストルを取り出したローズだが、ケイは頑なに運転席から動こうとしなかった。
「ケイ!」
「奴は放っておけません……!」
「来なさい! 私の命令を!」
「聞きません」
ケイは微笑を向けた。美しい笑顔だった。
「聞いて欲しいのなら、今度僕とデートしてください」
「ケイ……!」
スフィンクスが近づいてくる。反対側からは爆音が連続して響き始めた。機関車が魔獣と爆発に挟まれる形となる。ケイを救出しに向かおうとしたローズの車両が爆発に巻き込まれて、虚空へと舞った。
「ケイッ!!」
ローズは彼の名を叫びながらも、手元が狂うことはない。近くの建造物へとロープを放ち、無事脱出して見せた。怪物の宿命であるかのように。
屋上へとぶつかるように落下し、ぐっ、と息を漏らす。そのまま転がり地面に叩きつけられそうになったところを、再度ロープを発射して身体の体勢を制御する。地面へ三点着地を決めてローズを巻き戻すと、急いで脱線した機関車の元へ向かった。線路上ではスフィンクスが焼かれて丸焦げとなっている。なだらかな丘を転がるようにして、機関車は横転していた。
「ケイ……」
「ローズ、さん」
か細い声が聞こえる。自分の名を呼ぶ声が。慌てて彼の元へ近づいたローズは、重傷を負うケイの身体を支えた。
「しっかり……しなさい」
と言いながらも一目で気付いた。長年の経験で培われた観察眼は、時に恨めしくも感じられる。ケイは致命傷を負っている。逃げればいいのにずっと運転席に張り付いていたせいだ。一個人として賛同はできないが、祓魔師としては理に適っている。魔獣は人間を喰らう。機関車は運転手がいなくてもある程度走り続けるだろうが、無人となった場合スフィンクスは線路から脱し、街中で暴れ始めたことだろう。
だから、ケイは最後まで居残ったのだ。理解はできる。だが、やはり認めがたい。
「どうして逃げなかったの……」
「あなたが好きだから、では、不足ですか……」
大いに不足だった。そんな理由のために死ぬべきではない。
「もっと相応しい相手がいたでしょう。怪物なんかじゃなくて」
「どうで、しょうか……わかりませんね。少なくとも、僕に選択肢はなかった……。あなたに一目ぼれした時から」
「この、見た目に惚れたの?」
ローズは何回か自分を強姦しようとする男を打ちのめしたことがあるので、一理はある。だが到底納得できない。美人なら他にもいただろう。ここでそんなことを聞きますか、とケイは苦笑しながらも説明を始めた。
「そう、ですね……確かに、見た目も……いい、です。でも、僕が惹かれたのは……あなたの、うちにある、そのミステリアスな、内面」
「私に秘密なんて」
「そう、そうです……あなたに秘密は、ない。知るまでは謎めいた人物でした。でも、知れば知るほど……あなたはただの……少女だった。女の子だったんです」
「私は……怪物。悪魔の子よ」
視線を逸らすローズに、ケイは不意打ちを仕掛けた。ローズの左頬に接吻し、イタズラ少年のような笑みを浮かべる。
「ケイ……」
「あなたが何と言おうと……誰が、何と言おうとも、あなたはひとりの少女です。それは……死んでいったみんなも同じ想いでしょう。僕も胸を張って、そう言えます。だから、卑屈にならないでください」
「ケ、イ」
「ナポレオンを、祓うというのなら……気を付けて。彼は本当の意味での怪物です。そして……悪魔だ。でも、あなたは違う。だから、祓える。エクソシストでも、怪物だからでもない。ひとりの少女だからです」
「私は……」
ローズは視線を彷徨わせる。もっとできることがあったのではないか。どこで致命的なミスを犯したのだろうか。ケイだけではない。本当はみんな救えたのではないか。ウェイルズは教会の存続のために策を巡らせたが、彼すらも、救うことができたのではないか。
だが、そんなことを考えるには、時間が経ち過ぎた。ケイの身体からは力がすっかり抜けきって、しかし気力を振り絞りローズの左頬へ手を当ててくる。――もっと向き合うべきだった。ちゃんと、きちんと。
「見守っています……ローズマリー……さん……」
ケイの瞳から光が消えた。ローズはその身体をゆっくりと持ち上げて、火の手が上がらない場所へと鎮座させる。丁重に葬る時間は残されていないが、奇跡的に燃えずに生えていた一輪の白い花を摘み取って彼の遺体の上にのせた。
死に顔は、やはり美しかった。どうして人の死というものはこれほど美しいのだろうか。生きるために全力で抗っているからか。ローズには理由がわからない。
その綺麗な顔を看取っていると、背後から名前を呼ばれる。振り返ると、白の少女が立っていた。
「シュタイン」
「私が代わりに死ぬべきでした」
「これ以上の無意味な発言は控えて。行くわよ」
ローズはシュタインの言葉紡ぎを止めると、彼女の先頭を歩いていく。業火に包まれる街、革命の嵐の中を進んでいった。
すると、突然世界が歪み始める。それに構うことなくローズは着実に前へと進む。
前方には、見たことないがどこか既視感がある男が現れた。いや、大聖堂に飾られた歴戦の祓魔師の絵画でその顔は見たことがある。ウェイルズの祖父だった。彼は士官の軍服に身を包む男に無念そうに語り掛ける。
「私は君の思想に共感していた。君は世界のことを、人々のことを一心に考えられる人物だと思っていたのだが」
「私もあなたの思想に一定の理解を示していた。だが、エクソシスト。君たちの行動は……もどかしい。もっと直接的な力で民衆を支配するべきだった。君たちのやり方では、世界は一向に一つにならないだろう。誰かが、手を下すべきなのだ」
「それが君だと言うのか、ボナパルト君」
「そうとも――私だ」
ナポレオンがダブルバレルのフリントロックピストルを引き抜く。ウェイルズも対抗して銀のペッパーボックスを向けたが、ナポレオンは目に見えないほどの動きで弾丸を避けると、ウェイルズの頭を吹き飛ばした。
幻影が失せて、また新しい歴史の一場面が表出する。今度はセントヘレナ島だった。
また絵画で見た人物。ウェイルズの父が、屋敷の書斎で本を書き記していたナポレオンの傍に立っていた。
「もはや私には何の力もない。なのに、君は私を殺しに来たのか」
「お前にはまだグリモワールがある」
ナポレオンは本を閉じて、棚にある別の本を手に取る。
「これにも、な。私は敗北した。惨めにな。もう少し、国民を利用するべきだったが……良心的に動きすぎたか」
「今までの行為が良心的だと?」
ウェイルズの問いをナポレオンは鼻で笑った。椅子から立ち上がり、仰々しい態度で話し始める。
「そうとも。フランス国民はそう考えていた。私の信者は多い。人々は私のことを責めるだろうが、心ある人間なら、私を理解できるはずだ」
「私は心無い人間ということか」
「そうなるな、ウェイルズ。君の父上には感謝している」
ウェイルズは銃口を構える。ナポレオンは肩を竦めた。
「また、歴史に介入するのか。私の死因は何になる? 君たちは何人の為政者を殺してきた? そして、これから何人を殺す? ……エクソシストと悪魔の創作による歴史は、一体いつまで崇められ続けるのだ?」
「我々は歴史に興味などない。悪魔に関心を寄せるだけだ。お前が悪魔を利用しなければ、我々が介入することもなかった」
「それは嘘だな。悪魔の存在を誘発するとして、君の父上は私に協力を求めてきた。あの頃のフランスは誰もが愚鈍だった。革命を起こし王を殺した後に何が起きるのか、民衆も貴族も誰一人まともに考えていなかった。先代の王が犯した過ちの罪を王に擦り付け、茶番劇でギロチンに掛けたはいいが、今度は指導者を喪失して大混乱へと陥った。だから私が皇帝となったのだ。無知な民衆を率いるための王として」
「それは周辺諸国に戦争を仕掛ける理由にはならない」
「挑戦してきたのはイギリスだ。世界の支配者気取りのな。私よりもかの国が流した血の方が多いだろう」
「だろうな。だが、それでも罪は償ってもらう」
ウェイルズはペッパーボックスの引き金を引いた。後からやってきたドクターが遺体を見て死因を公表する。
「ああ、これは酷い。持病である胃ガンですな」
「そうだな。遺体は修繕しておけ」
「わかりました」
場面が切り替わり、今度は劇場に移る。登場人物はウェイルズの父と、彼の前方にあるバルコニー席で劇を鑑賞しているエイブラハム・リンカーンだった。演目はわれらがアメリカのいとこ。イギリス貴族の遺産相続問題にアメリカの甥が絡む喜劇だ。
「どうしても殺すのですか」
部下であろう黒衣の少女が訊ねる。ウェイルズは頷いた。バルコニーブースではリンカーンと妻のメアリーが仲睦まじく会話している。南北戦争や息子の死によってもたらされた精神ダメージの回復を図るため彼らは劇に訪れた。
「彼は偉大な人物だ。アメリカ史に名を残す男だろう。彼以上の大統領は現れないかもしれない。だが、インディアンに対する政策は苛烈すぎた。全てのインディアンが善人とは言わないが、あの虐殺は数多の堕落者を生んだ。容認はできない」
「人間の二面性……度し難いものですね」
「そうとも。悪事を成すのは悪人だが、大悪事を成すのは……善人だ」
直後、リンカーンが鑑賞していたバルコニー席に乱入者が現れる。南部支持者の俳優だ。男はデリンジャーをリンカーンの後頭部に向けて撃ったが、その瞬間、ウェイルズもライフルの引き金をタイミングを合わせて絞っていた。
バルコニー席で起きた混乱は、全てブースという名の俳優の仕業であると誰もが誤解した。幸いなことにブースは目立ちたがり屋だったため、バルコニーから飛び降りると南部は復讐を果たした! と叫んでさらに注目を浴びてくれた。彼は体よく本当の暗殺に利用されただけだというのに。
ウェイルズは少女に頷くと席から逃げるリンカーンの背姿を一瞥し、席を後にした。
「傲慢だとは思わないかね」
突然、声が掛けられる。否、それは必然だった。
幻の劇場を踏み通って、ようやくローズは目的地に辿り着いた。火の手が上がる街の中心部にいたところは、ローズに向かって手に持っていた手紙を投げる。それは不自然に吹いた風にコントロールされ、ローズの手元へと届けられた。
中身を一瞥する。手紙は短文だったが、歴史的証拠が記されている。
祓魔師が傲慢だと言うナポレオンの論証を補強するための証拠が。
拝啓 エクソシスト殿
貴殿の助言によって、いささか不本意な形ではあるが、奴隷の解放に成功した。物事を解決するためには妥協が必要だということはわかっているが、やはり気は晴れない。それでも目覚ましい進歩であることは間違いない。貴殿らには感謝している。
だが、やはり、インディアンと黒人奴隷は別物だ。インディアンは凶悪な連中で、野蛮人。無実の子どもすらも容赦なく殺す。私には、どうしても彼らと共生する未来が見えない。同じ人間だとはとても思えないのだ。私が思う人民に、彼らは含まれない。
よって、貴殿の忠告には従えない。気にそぐわないと言うのなら、殺しに来たまえ。他の為政者たちと同じように。残念ではあるが、致し方ない。その時は、私も覚悟しよう。
だが、忘れないでくれ。私は貴殿に感謝している……我が盟友、ウェイルズ卿。
エイブラハム・リンカーン
「このリンカーンという男は、素晴らしい思想の持ち主だったはずだ。それをエクソシストは殺し、歴史に手を入れた。……私の甥であるシャルルにも君たちは圧力を掛けた」
ナポレオン三世に対して教会が圧力を掛けたという歴史についてはローズも学んでいる。結果として、彼は議会を尊重する形を取り、独裁権力を放棄した。それにより、祓魔師は彼から手を引いたのだ。
その部分だけを切り取れば、確かに祓魔師は傲慢だろう。ローズ自身、完全に否定はできない。だが、手を出さなければ無実な人間が死んで、堕落者が生まれる。悪魔が悦ぶのだ。祓魔師として、見逃すことなど到底無理な相談だった。
「世界にとって必要な措置よ。予防措置。どれだけ傲慢に見えたとしても」
毅然として言い返すと、ナポレオンは問い返してきた。ナポレオンの背後で引火物が爆発し、爆音が響き渡る。
「お前は世界がどのような場所であり、自分が一体何者か、本当に理解しているのか?」
そう問われたことがある人間は限られているだろう。幸か不幸か、ローズは問われたことがある。
ゆえに、ローズは答えた。知っている、と。
「私は知っている。この世界の在り方を、私は知っている。世界は悪魔の箱庭。私たちは、荒れ狂う草木を統制する剪定者。悪魔を祓うエクソシスト」
剪定者であり、選定する者。
だから、祓魔師たちは尽力してきた。世界を守るために。気の遠くなるような昔から。
だが、ナポレオンは言う。これが運命だと。
「これは運命なのだよ。定められし宿命だ。フランス革命で私が皇帝になったように、教会革命は、私を世界の主とする。さて……」
炎に抱かれながら、質問者は新たな問いを投げる。革命の嵐が吹き荒れた。地獄の炎が周囲で膨れ上がり、轟音を立てている。
「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。さぁ、貴様はどれを語る?」
「私は未来のために戦う!」
「やはり貴様は狂人か。では、私は現在のために戦おう!」
ナポレオンは懐から一冊の本を取り出した。それは小説家になれたと喜々としてローズに話していた頃に所持していた、白紙の本とは違う。年季の入った黒色の本だ。表紙は血で赤く染まっている。彼は本を掲げて、高らかに宣言した。
「私の辞書に不可能はない!!」
彼が言葉を発した瞬間、地面に光が奔った。地割れが起きるかのように駆け巡る光の柱を一瞥し、シュタインが平静のまま呟く。
「召喚の儀式、ですか」
「……」
ローズは黙していた。今更驚くようなことでもない。リリンならばつまらないと言って笑いかけるだろうが。光が溢れ、街を満たす。エヴァンジェルヒムの大地に刻まれた魔方陣が役目を果たし、地獄の門を解放しようとしている。
それをローズはただ見ていた。対応策が何もないからだ。恍惚としたナポレオンを見つめ、古代に天使が降臨した大地へ悪魔が君臨する様を目撃する。
それは、ハエの形をしていた。祓魔師でなくともその正体はわかるだろう。
暴食の象徴、サタンの次に強力とされる悪魔。
「ベルゼブブ……」
「これで君たちは終わりだ。違うかね?」
ナポレオンは両手を大きく広げる。その頭上には巨大なハエの悪魔、ベルゼブブが浮かんでいる。
しかし、強大な悪魔を目にしても、恐怖という感慨は浮かばなかった。ただ、高揚している。身に潜む怪物が。
よって、何も厭わず崩壊は構えられた。いつもと同じくレバーを操作してコッキング。ナポレオンへ、革命の王に向けてライフルを照準する。
「いいえ。これは新たな始まりよ」
臆面なく答えた。質問者の回答に。
この男には借りがあるが、それは大した理由ではない。
この男に復讐する動機はあるが、そのような稚拙な感情で動くわけでもない。
理由は単純明快だ。教会だから。祓魔師だから。
ナポレオンの辞書に不可能という文字はないという。であれば、ローズマリーの怪物にも、不可能を可能にする力があるはずだ。
ゆえに、引き金を引く。悪魔と戦う。
ただ自分がそうしたいから――祓魔少女は魔を祓う。