蠅の王
銃声が轟いたが、ナポレオンは身を翻して避けた。
そうして、喧しい羽根音を伴奏として舞台の主役の一人はもう一人の主役に歩み寄った。周囲には炎が煌いている。業火が戦場を包んでいた。
「私の前には幾人ものウェイルズが立ち塞がった。貴様で最後だ、ローズマリー・ウェイルズ!」
ダブルバレルピストルが火を噴く。ローズは銃口を見切って弾丸を避けてライフルを応射。だが、他の悪魔の眷属のように易々と捉えられない。
彼は本来砲兵士官であり、戦術家であり、司令官なのだ。だが今は一人の革命戦士。強大な力を持った軍人だった。
「シュタイン!」
「心得ています、ローズ」
シュタインの援護射撃。二人でナポレオンを狙うと、徐々にだが射撃精度が向上してくる。だが、皇帝に命中する前に、ベルゼブブが羽根を使って風圧を送ってきた。風にかき乱されて弾道が乱れる。吹き荒れる突風の中でも標的に命中させるようローズは訓練を積んでいるが、今回ばかりは相手が悪い。
怪物と堕天使、悪魔の子と悪魔の子の組み合わせよりも、怪物と悪魔、皇帝と蠅の王のタッグの方が優れている。
ベルゼブブはサタンの次に強力とされる悪魔で、非常に巨大だ。後述された資料の通りハエの姿をしているが、それが元々の姿だったのか、バアル・ゼブルと呼ばれていた気高き神が堕天した姿なのかは定かではない。だが、奇妙なことにその組み合わせは相応しいように思える。かつて革命の申し子とまで呼ばれ、フランス国民だけでなくヨーロッパ全体に名を轟かせたナポレオンが、皇帝となって徐々に独裁者へと変わって行ってしまったように。
ローズとシュタインは後退を余儀なくされた。こちらの弾丸は乱れるが、ナポレオンの射撃は物理法則を無視してこちらに着弾してくる。ベルゼブブを放置したままナポレオンと撃ち合うのは得策とは言えなかった。
すると、彼は再び魔導書を掲げて、ベルゼブブに命令する。
「我が異界の盟友よ、早速仕事に取り掛かるとしよう!」
その宣誓を受けて、ベルゼブブが唸り声を上げた。と、マリア女医が住んでいたウォレンの街から光が迸る。次の瞬間には、街が存在しなくなっていた。逃走しながら地図を取り出す。地図の形が変化していた。退魔教会が、エヴァンジェルヒムが少しずつ消えていく。初めから存在しなかったかのように。
「私がどうやって教会を滅ぼすのか、不可思議ではなかったか? ローズ! 私はこの世から……人々の記憶、数多の歴史書から、貴様たちの存在を根本から消失させる! 盟友の力を使ってな!」
「ナポレオンはエクソシストという概念をこの世から消し去るつもりです。このままでは……」
「わかってる。あいつをどうにかしないと」
ローズは空を見上げる。すっかり暗くなってきたはずなのに、国が燃えているため全く暗さを感じない。ベルゼブブはすっかり退魔教会の空を自分の陣地と定めて優雅に天を舞っている。奴はマモンやリリンのような人との対話は好まないらしく、ずっと醜悪なハエの姿を晒してナポレオンの指示通り動いていた。
無論、無償で協力するはずはないので、何らかのメリット……快楽的理由があるのだろう。そして、そういう理由で動く悪魔は何もベルゼブブだけではない。ローズは周囲に目を凝らして、目当ての品物を探す。
すると、時計塔の上に興味を惹かれた。強い違和感を覚える。
「見える? シュタイン」
「壺が置いてありますね」
「なら、取りに行くべきね」
ローズは逡巡しなかった。使える物は使う。例え悪魔でも。味方である限り、協力者である限り。
そういう迷いのなさはやはりナポレオンとの共通項であるのだろう。彼は悪魔の力を用いながらも、祓魔師と協力関係を結ぶのに何の躊躇いもなかった。ローズも、そうだ。ソロモン王の七十二柱の力を遠慮なく借りる。
「ローズ、貴様も悪魔の力を借りるのか? 我々は似てるな。怪物の共通点ともいうべきか。私は目的のためには手段を選ばない。貴様もそうだろう!」
「あなたに言われるのは癪よ!」
同族嫌悪の類かは謎だが、ナポレオンに指摘されるのは癇に障る。レバーアクションライフルを穿つが、風がローズの銃撃を阻害する。敵の銃撃に晒されながら、時計塔の上に登るはめになりそうだ。
(どうして塔の上なんかに!)
どうせ設置するなら、もっと安全な場所に置いて欲しいものだと切実に願ったが、それが悪魔の融通の利かないところだ。彼女は人間に協力的だが、あくまでベルゼブブと同じ悪魔だ。
協力は、その方が楽しいからという理由に過ぎない。
ゆえに、あの壺が大好きな青髪の悪魔が、ふざけた場所に武器をおく理由は納得できた。迎合はできないが。
「私が取ってくる。あなたは」
「素敵な武器を私も見つけました。また後で会いましょう」
「……ええ、そうね」
ローズはシュタインと別れて、時計塔の上方にロープピストルを放った。エアライフルで堕落者の一人を反撃させずに祓ったところだ。だが、残念なことにベルゼブブを音もなく静かに暗殺はできそうもない。風がローズの身体を揺らし、ナポレオンの弾道は微風すらも干渉せずに精確な狙いで放たれる。ローズの脇腹を銃弾が掠り、塔の側面に当たって爆発した。球状弾薬にグレネードランチャーのような機能は搭載されていないので、これが悪魔の力であると至近距離で痛感させられる。
だが、ローズは怖がらない。恐怖は他者が死ぬ時に感じるのみだ。爆発する弾丸とハエの風力に襲われながらもローズはロープの着弾位置を調整して見事時計塔を登り切った。そして、大き目の壺を蹴り割る。中からはフリントロックランチャーが出てきたので、両手で構えた。しかし、すぐには撃たない。
(もう少し近づかないと)
擲弾の弾速では、ハエの王に命中させられる気がしなかった。風がなければ問題ないが、ハエの王はコバエのようにすばしっこく、弾道をぐちゃぐちゃにする風力の発生源でもある。ローズはまたもや左手でロープピストルを構えて、今度はベルゼブブ目掛けて撃った。
時計塔の高さならば、ローズに風を送っていたベルゼブブの身体に届く。距離が近かったため、外れることはなかったが、狙い通りの場所には括り付けられなかった。
(まぁ、いいわ)
結果に妥協し、ロープをスイングするように塔から飛び降りる。ハエの下部には死角が存在する。風の影響下を受けない素敵な範囲が。唯一の問題点は、その死角をカバーするようにナポレオンが待機していることだ。だというのにローズは彼の存在を無視するようにして決行した。そうとも、対処する必要性を感じない。
眼下に立つナポレオンの顔が目に入る。彼はローズに二丁所持する拳銃の片方を向けた。
そうして――銃弾が迸る。ナポレオンの拳銃が未知なる破壊力を持つ銃に弾き飛ばされた。
「アンチマテリアル……知っているぞ。その武器はまだこの世に存在しない」
「私は知らないけどね」
ナポレオンに応じながら、ローズは擲弾発射機の引き金を引く。ベルゼブブの両側面に三本ずつ存在する足の内、一本が緑色の血と共に千切れて街へと降り注いだ。ローズはそのままロープを切り離して、ローリングしながら街中へと着地を決める。遠方ではシュタインが手で合図を送っていた。手には壺娘の贈り物であろう未知のライフル銃を持っている。
あれもまたマモンが残した置き土産だが、ローズは構わなかった。方針は最初から最後までずっと同じだ。
「やはり私と貴様は似ている」
「うるさいわね」
ナポレオンは狙撃手に狙われながらも堂々と身を晒して、ローズの元へ歩み寄ってきた。右手にはカットラスが握られている。ローズもナポレオンと同じように左手にリボルバーを構えて、右手にレイピアを持つ。そして、ナポレオンの背後にまたもや壺の出現を確認した。次はあれを使えと言うことだろう。
上空で羽音を立てるハエには、シュタインが高性能の狙撃中を使って応戦し始める。
「堕天使と人間のハーフを使役し、悪魔の贈り物を使い、怪物を高揚させながらも戦う。私が貴様に興味を持ったのは怪物だったからではない。似ていたからだ。だから貴様を題材にして小説を書くことに決めた」
「何と言うべきかしら。お目を掛けてくださって、光栄です。皇帝陛下、とでも?」
「貴様にそのような世辞は似合わない。私にもな。貴様は人間にうんざりしていただろう。私もだ。世界は一つなのに、人々はそのことを自覚しようともせず、地図に線を引いてここが自分の領地だと高らかに宣言し、くだらないゲームを始めている。椅子取りゲームだ。救いようがないのは、その低俗なプライドの押し付け合いで血が流れることだ。誰もが、世界の本質を見極めようともしない」
「世界は悪魔の箱庭」
「そうとも。人間が何をしたところで、その点は変わらない。庭先でアリがここが自分の国だと主張したところで、人はそのアリの巣を踏み潰す。雑草ならば、刈り取り根絶やしにする。上位者の存在から目をそむき、内輪もめをしているようにしか私には思えない。それは、ローズ、貴様もそうだろう」
「それは、確かにね」
祓魔師は太古から、悪魔の存在を知覚し人々に警告してきた。だが今の人々は祓魔師の方が悪者だと思っている。悪魔の計略通りだ。近代に入ってから、悪魔はより力を増し、人の血もより多く流れるようになった。
「今ならまだ間に合うぞ、ローズマリー。聡明な君」
「何のことかしら」
ローズは今更な物言いに呆れた。この男は骨の髄まで悪魔に染まってしまったらしい。
だから、悪魔と同じように自分を勧誘しようとするのだ。甘い蜜のような言葉を並べ立てて。
「私と組むがいい。方法など問題ではないだろう。私が流す血が最後となって、世界は一つになるのだ。愚人たちが過去のしがらみに縛られる世界は終わりを告げる。私と共に来れば、平和な世界を実現できるのだぞ」
ローズは返答する気力も湧かずに首を横に振った。しかし、ナポレオンは諦めずに説得を続ける。
その発言は、彼が絶対的な力を持っているというのに滑稽に思えた。否、絶対的な力を持っているからこそ、放たれた言葉だったのだ。
「孤独なの? ナポレオン。愚かな君」
「何?」
「あなたは孤独ね。私と同じように。あなたは一人でいることが好きだった。だけど、それは一人が好きだったからじゃない」
「私を、理解している気でいるのか」
「気ではいない。理解している。あなたは人を愚かと罵りながらも人を――コルシカ島を占領したフランス人すらもどうしようもないくらいに愛していた。敵対するヨーロッパの人々すらも。だから、世界を支配しようと考えた。一定の秩序は構築されているけど、世界の状態はフランス革命と同じ。混乱し、混沌とし、混迷しているだけ」
「……そうだな、そうとも。私は孤独だった。配下たちがどれだけ言葉を並べようと、信者たちが如何に崇拝しようともな。――私の同志となれ、ローズマリー」
ナポレオンは同調する。そして改めてローズを説き伏せようとした。
真摯な瞳で。それはケイの眼差しに似ていたが――決定的に違うものだった。
だから、ローズの応対も違うものとなる。
「私の答えは……これよ」
ローズは間髪入れずに回答を放つ。銀の弾丸を。
ナポレオンは頭を逸らして銀弾を避けた。憤怒の表情を浮かべる。
「やはり貴様は狂人だ、ローズ! ウェイルズとはどうしてかくも度し難いのか!」
「そろそろ因縁も終いにしましょう。チャーチとして、エクソシストとして、ウェイルズ家の一員として」
「孤独な女め! 愛する者を全て失ってもなお学ばない狂った女!」
ナポレオンは叫びながら、数歩離れた距離にいるローズの元へ一瞬で間合いを詰めてくる。レイピアとカットラスによる鍔迫り合いは、まるで自身が過去に遡ってしまったかのように感じられる。ナポレオンの装備は皇帝になる前、フランス革命に参戦した軍人として戦っていた時のものだ。彼は豪華絢爛な衣装の数々を、印象操作に使っていた。本来の装束は質素だが機能的な軍服だったのだ。その衣服は古い。丁度、ローズがウェイルズのものを真似たのと同じくらいには古い。前時代的な戦いを、ローズは崩壊し発熱する街の中で繰り広げている。
刺突と斬撃が唸りをあげて、ローズは返答を放った。
「ええそうよ! 私は狂っている! だからあなたの相手に相応しいのよ!」
美女と野獣ではなく、怪物と怪物。これほど殺戮に打ってつけな存在はいない。ナポレオンは賢人を装っているが、ローズから見れば十分に狂人だった。生に執着せず、ただ世界の統制を夢見ている。現在を騙ると言うが、彼の眼差しは未来を見据えている。彼なりの論理で。
だから、ローズも自分なりの主張をぶつける。例え教会が滅んでも、あなただけは祓うと。
「世界には指導者が必要なのだ! なぜそれがわからない!」
「世界に指導者なんて必要ない! 人々が自覚するだけでいい!」
「人は自覚などしない! 学ぶこともないぞ!」
レイピアが宙を舞った。だが、それは想定内なので、ローズは慄きもせずにナポレオンの懐で入り込む。ナイフを引き抜き、一閃。ナポレオンは剣を巧みに操り防御。鈍器としても優秀なピストルの銃把で殴り掛かってきたが、まるでダンスでもするかのようにローズは回転しながら打撃を避ける。
ナポレオンと交差するように切り抜けると、壺に向けて銃弾を放った。そして、銀色の剣を手に取る。
――これから教える剣術は、単なる人間相手の剣闘用ではない。人型の堕落者に対する戦い方でもあるのだ。
ウェイルズの言葉が脳裏をよぎる。そこにマーセの声も混ざった。
――まぁ、自分よりも力が上な奴に力比べするほどバカらしいもんはないな。そんなことするよりかは、頭を使って、別の方法を試した方がずっと賢い。
「ウェイルズの剣か」
とローズが装備するカットラスに見覚えがあるナポレオンが反応したと同時に、ローズは純潔の撃鉄を起こす。そこへ今度はリュンの言葉。
――剣と銃のセットってのは野蛮だけど……実用的でもある。扱えればの話だけどね。どれだけ相手の力が強くとも、技術力が勝っているなら、十分勝機はあるわ。
「エクソシストという者はなぜそこまで銀にこだわるのか。私は常々不思議だった」
銀でできた剣と銀でできた銃を見ながら、ナポレオンは告げる。ローズは淡々と理由を説明した。
「効果的だから。それだけ」
「私の豪華な衣服と同じだな」
「ええ、そうね」
再び銃声が轟く。少し遅れて剣戟。堕落したマーセやリュン、ウェイルズを相手にした時のように、単純な力比べでは劣勢を強いられる。かと言って、いつまでも攻撃を受け流し続けることはできない。突破するための策が必要だが、シュタインはベルゼブブを抑えるので手いっぱいで援護は困難。
とすると、敵の弱点を衝く必要があるが、その明確な弱みをローズは見つけられないでいた。ナポレオンがこれほどまでに剣と銃の達人だったとは知らなかった。
「私に急所などないぞ、ウェイルズ」
「それはない」
ステップを踏み、全身を使って彼の力を受け流す。反射的に放った銃撃は、ナポレオンの刃で裂かれた。
だというのに、ローズは好戦的な笑みを浮かべている。怪物が昂ってきた証拠だ。
「弱点がない者は存在しない。そう豪語する奴は――己の弱点を見逃しているだけ!」
「なら見つけてみたまえ! 私の弱点を!」
「ええ――今すぐに!」
ローズはリボルバーをナポレオンの左後方に撃発。瞬間、彼は目を見開いた。
跳弾目的の射撃に驚いたわけではない。その弾道は取らないと高を括っていたからだ。崩落した建物のがれきに命中した弾丸は屈折し、ナポレオンの背後へと奇襲する。身体を貫通するか回避すれば、ローズに命中する軌道を取って。
「これは驚かされるな!」
だが、ナポレオンは回避――しかしローズは最小限の行動しか取らなかった。主にナポレオンの動きに合わせて狙いを付けるということだけしか。自身が放った銀弾がローズの脇腹を射抜くと同時に、ローズもまたナポレオンの側面を撃ち抜く。二人揃った同じ個所に弾丸は命中した。
「ぬッ!」
「……ッ」
顔をしかめながらもナポレオンにカットラスを強引に振るう。無論、ナポレオンはあっさりと防いだ。続け様にローズは銃を突きつけるが、ナポレオンも同じようにローズの身体へ銃口を向けている。
互いに防御も回避もせずに、攻撃を選択した。銀と黒の弾丸が身体に銃創を作る。
「痛いか、ローズ! 私は痛いぞ! だが、この痛みこそが――」
「生きる証!」
ローズはカットラスを投げ捨てて、リュンのパーカッションリボルバーを取り出す。すかさずファニングショット。ナポレオンはその弾道が跳弾を含め自身の身体を捉えないと見抜いて笑みを浮かべていたが、
「――何ッ!」
その内の一発がポーチに仕舞っていた魔導書を掠ったことを知って驚愕する。
「あなたの弱点はそれね」
ローズはリボルバーを仕舞いながらロープピストルを背後に撃つ。激昂したナポレオンに崩壊のスピンコックによる片手撃ちを披露して安全距離へと逃走を図る。
「させるか――ベルゼブブ!」
ナポレオンの叫びに呼応して、ベルゼブブが風をローズに飛ばす。嵐のような豪風にローズは流されて、燃え盛る民家の中へ吹き飛ばされた。衝撃に息を吐き出しながらも立ち上がり、瞬時に走り始める。すぐに自分がいた地点に砲弾が着弾。壊れた壁から窺えるのは、亡者となったエヴァンジェルヒムの国民に砲撃指示を出しているナポレオンの姿だった。悪魔の力を使って大砲を呼び出したのだろう。
「砲撃で死ぬというのもまた悲壮感にあふれるとは思わないか!」
「私は現実的な物語より、バカバカしいくらいに奇跡が連発する夢物語の方が好きなの」
ローズは駆ける。小さい頃から鍛えられたのは何も戦い方だけじゃない。祓魔師には移動力も必要不可欠だった。スタミナはもちろん、障害物が多い中でも颯爽と身を動かせるパルクールだ。テーブルの上を流れるように飛び越えて、窓には正面から飛び抜ける。ローズの足跡を砲弾が無に帰した。だが、痕跡は、いた証は消えたとしてもローズマリーは生きている。巧みな移動技量で崩れかけた民家群を次々押し通りナポレオンは語調を強めた。
「撃てッ! くそ、なぜ当たらない!」
その毒づきに間を開けずに放たれる狙撃。ローズの射撃が大砲の砲手の頭を撃ち抜く。
ナポレオンがハッとした瞬間に、ローズは移動途中に発見したエアライフルの装填を終えていた。屋根の上から狙いを定める。
「その武器は……!」
「これ知ってるでしょ。あなた、嫌いでしょう?」
ローズは意地の悪い笑みをしながら引き金を引く。発砲音のしない銃は弾丸を皇帝に送り届けたが、ナポレオンは避けた。しかし、恐怖の武器はナポレオンの怒りの導火線に火をつける。
「ローズマリー!!」
「ローズ!!」
シュタインの警句を聞いて振り返ると、ベルゼブブがいつの間にか背後に移動していた。先程まで放たれていた喧しい羽音は恐ろしいまでに静かになっている。エアライフルと同じように、ハエの王の静穏性も優れていたようだ。
しかしローズに恐怖の文字は存在しない。むしろ感謝すらして、回収していたもう一つのライフルをハエの巨大な複眼へと向ける。
ビッグ・フィフティの愛称を持つ五十口径のシャープス銃。バッファローすら一撃で仕留める威力を持つこのライフルはアメリカのハンターたちに愛用されていたモデルだ。ローリングブロック式の銃はシュタインが持つ未知のライフル銃に遠く及ばないだろうが、それでも柔らかい部位である目に直撃されるのは好ましくないだろうとは容易に想像ついた。
ローズは衝撃を抑えるために屋根の上に仰向けとなり、両足に銃身を挟んだ。その態勢のまま引き金を絞る。
直後にもたらされた結果は、ベルゼブブにとっては悲報、ローズにとっては朗報となった。
特性である反射能力を十分に発揮できなかった巨大バエは緑色の血をこぼしながら悲鳴とも鳴き声とも判別つかない絶叫を上げ、本能の赴くままローズを潰そうとしてきた。
「まずいか」
ローズはシャープス銃を捨ててロープピストルを手近な建物へ撃とうとする。が、風がローズの身体を吹き飛ばし、屋根から転落しかけた拍子にロープピストルを地面に落下させてしまった。
「くそ」
縁を掴みながら、次の行動策を思案する。が、今のままではハエに潰されるビジョンしか見えない。
「判断を誤ったな、ローズ!」
ナポレオンの喜々とした声。ドラマチックだ! と彼は喜んでいる。全てを奪われた女が復讐に走るが、予想外のところでミスをして、呆気ない最期を迎える。その物語から得られる教訓はこうだ――復讐は神に任せなさい。
ローズにしてみれば、これは復讐ではない。ただの快楽目的な殺人に過ぎない。だが、やはり奴を放っておくことはできなかった。未来のためにも。
世界に指導者は必要ない。そう宣言したからには、奴を排除する義務がある。一か八かの博打に奔ろうとしたその時、
「ローズは、やらせません」
声が、響いた。悪魔だが悪魔ではない声が。
シュタインが屋根の上に飛び乗った。銃器の類は一切見られない。その身一つでローズの前に立ち塞がっていた。彼女はローズに手を伸ばす。手を取ってもらえると思ったローズが手を伸ばし返したが、シュタインはローズの頭を優しく撫でただけだった。主人が犬を労わるように。親が子を褒めるように。
気の知れた友人同士で、じゃれ合うように。
「何をする気……」
「もうわかっているはずです。銃器では、ベルゼブブの突撃は止められない」
かくいう間にもベルゼブブは迫り、家屋ごとローズたちを潰そうとして、シュタインが左手を背面に伸ばした。か弱い少女の左手が、悪魔の巨体を押し留める。人の形をしながらも、決定的に人ではない化け物。
悪魔の、子。堕天使と人間のハーフ。だからローズの仲間に相応しく――。
「ダメ、シュタイン。あなたは……人間」
「いいえ。私は悪魔です。ですが、今では心からそのことを嬉しく思います」
流石にベルゼブブの力の方が強いのか、シュタインの腕が押され始める。しかし、シュタインは笑っていた。人に奉仕することに強烈な快楽を感じるように設計された少女。だが、笑みの方向性はあらかじめ入力されたものとは異なっているように感じられた。
自我を得た少女は初めて、生きる意義を見つけたのだ。誰かに与えられたわけではない。自分で判断し、そうすると決めたのだ。マモンが作った殻でも、ローズが与えた自我でもなく。
自分の意思で、ローズマリーを救うと決めた。それは、配下や従僕としての判断結果ではなく……。
「私の命令を」
「聞きません。私はローズの配下……の前に、ローズの、友達、仲間ですから」
シュタインの怪力がベルゼブブを後方に弾き飛ばす。そして、彼女はハエの王に向かって跳躍した。レンガ造りの屋根をめり込ませるほどの脚力で。
そして、大口を開いてかぶりつく。暴食の定めを自身の欲望のために行使する。
友達を救うという欲望のために。
「シュタイン……!」
「なるほど、本当に……ドラマチックだな!」
屋根の上に戻ったローズはその声で後ろを振り向く。目に入ったのは、シュタインに砲撃命令を出すナポレオンの姿だった。
「止せッ!!」「放てッ!!」
ローズがライフルを撃つのと大砲が穿たれるのは同時だった。
爆発がベルゼブブを包む。シュタインといっしょに。肉塊になった盟友の姿を見て、ナポレオンは嘆いた。
「ああ、加減をしくじってしまった。私の盟友が死んだぞ」
その響きにベルゼブブを悼む気持ちは含まれない。だが、彼は役目を果たしてくれた。ナポレオンは嘯く。
「教会の概念はもはや風前の灯火だ。人々は覚えていないだろう……本来の歴史を! エクソシストという存在は人々の記憶や記録から消え失せて、世界はあるべき姿へと戻る! 後は貴様を倒せば……終わりだ。そうだろう? ローズマリー・ウェイルズ!!」
「ナポレオン・ボナパルト!!」
再度砲撃。ローズは敵の名を叫びながら、着地点を計算して屋根の上から飛び降りる。一軒家が爆散。
ローズはその爆発を背景にして、ライフルのレバーを操作し、構えた。仇敵に、怪物に。
――悪魔に、向けて。




