第2話 シュナイダーとギル
先生。
覚えていますか。
わたしが十三歳の頃。
先生は何度も、わたしに同じことを言いました。
――魔法は、敵を倒すためだけにあるんじゃない。
あの頃のわたしは、その言葉をあまり理解していませんでした。
だって。
わたしが王国から求められていたのは、いつだって敵を倒すことだったから。
* * *
「もう一度」
「ええー」
「返事」
「……はい」
王立魔導院の訓練場。
わたしは杖を持ったまま、露骨に肩を落とした。
目の前には、シュナイダー先生。
白髪混じりの髪を後ろへ流し、細い眼鏡をかけた魔導士。
わたしの魔法の先生だった。
その少し後ろにはギル。
いつものように、わたしを見ている。
「ギル」
「はい」
「先生を説得して」
「不可能です」
「まだ何も言ってないよ!」
「訓練中止の要請であると推測しました」
「なんで分かったの?」
「過去十九回、同様の発言が確認されています」
先生が笑った。
「さすが君の護衛機だ」
「味方してよ、ギル」
「護衛と訓練妨害は別問題です」
「裏切り者」
「私は王国軍所属です」
「そういう意味じゃない!」
「リナ」
先生が杖の先で地面を軽く叩いた。
「集中」
「はーい」
「返事」
「はい!」
今日の訓練は、攻撃魔法ではなかった。
目の前に置かれているのは、木箱。
その上には卵が一個。
「この卵を守りなさい」
「簡単じゃん」
「そうか?」
「防壁を出せばいいんでしょ?」
「やってみなさい」
わたしは左手を出した。
透明な魔力の壁が卵を包む。
「できた」
「では始める」
先生が杖を振った。
小さな石が飛んできた。
防壁に当たる。
カン。
弾いた。
「余裕」
二個目。
三個目。
十個。
「先生、これ意味ある?」
「ある」
「全然壊れないけど」
「では増やそう」
先生が杖を上げた。
「え?」
周囲の地面から、小石が一斉に浮かび上がる。
十。
二十。
五十。
「ちょっと待って!」
一斉に飛んできた。
「うわっ!」
わたしは防壁を増やす。
一枚。
二枚。
三枚。
小石がぶつかる。
防ぐ。
防ぐ。
まだ来る。
「こんなの全部――」
反射的に攻撃魔法を展開した。
浮かんでいた小石すべてに標的印が重なる。
「壊せば――」
「駄目だ」
先生の声。
止まる。
「……なんで?」
「今日の目的は敵を消すことではない」
「でも石を全部落とせば卵は守れるよ?」
「戦場なら、それでいい場合もある」
「じゃあいいじゃん」
「では」
先生が杖を下げた。
小石が地面へ落ちる。
代わりに。
先生は訓練場の端を指した。
そこには人型の木製模型が三つ置かれていた。
「石の間に味方がいたら?」
「……」
「攻撃すれば味方まで巻き込む状況なら?」
「それは」
「避難できない民間人がいたら?」
わたしは黙った。
先生は卵を見る。
「君は敵を倒すことに関して、私が教えることなどほとんどない」
「そんなことないよ」
「あるさ。技術ならな」
先生は少し笑った。
「だが、君が本当に学ばなければならないのは、撃つことではない」
「……じゃあ何?」
「撃たないことだ」
わたしは眉を寄せた。
意味が分からなかった。
「敵がいるのに?」
「そういう時もある」
「攻撃されたら?」
「それでもだ」
「変なの」
「そうだな。戦争というのは、大抵そういうものだ」
十三歳のわたしには、よく分からなかった。
敵が来る。
倒す。
味方を守る。
それでいいと思っていた。
「もう一度」
「まだやるの?」
「卵を割らず、石も壊さず、すべて受け止めろ」
「難しくない?」
「だから訓練する」
わたしは卵を見る。
「ギル」
「はい」
「代わって」
「魔法使用機能はありません」
「知ってる!」
先生がまた笑った。
* * *
一時間後。
「……疲れた」
「魔力量の減少は確認できません」
「だから魔力の話じゃない!」
魔導院を出たわたしは、石畳をだらだら歩いていた。
ギルが後ろからついてくる。
「今日それ二回目だよ」
「事実を報告しています」
「魔力が減らないからって疲れないわけじゃないんだから」
「身体的疲労を確認。歩行速度を十八パーセント低下させることを推奨します」
「もう遅く歩いてるよ」
「さらに低下可能です」
「それはもう止まるの!」
空を見る。
灰色の雲。
「雨降りそう」
「降水確率七十八パーセント」
「傘持ってきた?」
「ありません」
「ギルって傘いらないもんね」
「防水処理済みです」
「ずるい」
「構造上の差異です」
「そういう真面目な返ししなくていいから」
大通りへ出る。
昼を少し過ぎた時間。
給仕機が食堂の前で看板を出している。
配達機が荷物を抱えて小走りに進む。
道路では乗合車が金属音を鳴らしながら停留所へ入ってきた。
わたしは何となく、先生の言葉を思い出した。
『撃たないことを学べ』
「分かんないなあ」
「何がですか」
「先生の話」
「本日の訓練内容ですか」
「うん」
「防御訓練でした」
「それは分かってる」
「では何が不明なのでしょう」
「撃てるなら撃った方が早いじゃん」
「状況によります」
わたしは振り返った。
「ギルも先生と同じこと言うの?」
「例えば、リナの背後に味方がいる状況で敵兵へ貫通性の高い魔法を使用すれば、味方への被害が予測されます」
「そうじゃなくてさ」
「では質問を明確化してください」
「もういい」
「了解しました」
「諦めるの早い!」
「『もういい』という発言を終了意思と判断しました」
「こういう時は聞くんだよ!」
「学習します」
ポツ。
鼻の頭に水滴が落ちた。
「あ」
ポツ。
ポツポツ。
「降ってきた」
「予測より十一分早い降雨です」
「そういうのいいから! 走ろ!」
わたしは駆け出した。
「リナ。濡れた石畳での走行は危険です」
「大丈夫!」
「停止してください」
「屋根までちょっとだから!」
「転倒確率が――」
「平気だって!」
次の瞬間。
靴が滑った。
「わっ」
身体が横へ傾く。
地面が近づく。
でも。
落ちなかった。
ギルの腕が、わたしの身体を持ち上げていた。
「……」
「……」
「何も言わないで」
「まだ何も発言していません」
「絶対言おうとしてたでしょ」
「『濡れた石畳での走行は危険です』と発言する予定でした」
「やっぱり!」
ギルはわたしを地面へ戻した。
「歩いてください」
「はいはい」
雨が強くなる。
近くの店の軒下まで、まだ少し距離があった。
「うわ、結構降ってきた」
その時。
雨が止んだ。
「ん?」
いや。
周囲には降っている。
わたしのところだけ。
見上げる。
ギルが片腕を広げていた。
大きな装甲腕。
それが傘みたいに、わたしの頭上を覆っている。
「ギル?」
「体温低下を防止します」
「……濡れるよ?」
「防水処理済みです」
「それは知ってるけど」
「問題ありません」
ギルはそのまま歩き始めた。
わたしも隣を歩く。
片腕を不自然に上げたまま。
「歩きにくくない?」
「移動性能が六パーセント低下しています」
「じゃあ普通に歩けば?」
「リナが濡れます」
「ちょっとくらい平気だって」
「風邪を発症する可能性が上昇します」
「心配してるの?」
ギルが止まった。
「……」
「ギル?」
「護衛対象の健康維持は任務に含まれます」
「やっぱりそれか」
「はい」
「つまんない」
そう言ったけど。
少しだけ嬉しかった。
* * *
王国軍第三整備棟。
「何やったらこんなに濡れるんだ」
ローデンさんがギルを見て呆れていた。
「降雨です」
「見りゃ分かる」
ギルの装甲から、水がぼたぼた落ちている。
わたしはほとんど濡れていない。
「お前、まさかこいつの傘やってたのか?」
「体温低下を防止しました」
ローデンさんがわたしを見る。
「傘くらい持て」
「忘れた」
「こいつ軍用機だぞ」
「わたしが頼んだわけじゃないもん!」
「ではギルが勝手に?」
「うん」
ローデンさんの手が止まった。
「……へえ」
「何?」
「いや」
ギルの肩装甲を外しながら、ローデンさんが少し笑う。
「何でもない」
「気になる」
「お前にはまだ分からん」
「何それ!」
ギルが整備台へ座る。
わたしは近くの椅子に腰掛けた。
外では雨が降り続いている。
「ギル」
「はい」
「ありがと」
「感謝は不要です」
「またそれ」
「任務ですので」
わたしは少し考えた。
「じゃあさ」
「はい」
「ギルが壊れないようにするのも、わたしの任務ってことにする」
「そのような任務は存在しません」
「今作った」
「リナに任務設定権限はありません」
「細かいなあ」
ローデンさんが吹き出した。
「いいんじゃねえか」
「ローデンさん!」
「護衛されっぱなしじゃ気分悪いだろ」
「そうそう!」
ギルは数秒黙っていた。
「……理解不能です」
「そのうち分かるよ」
「何をですか」
「心配される気持ち」
「心配」
「うん」
ギルの視覚灯が一度だけ瞬いた。
「記録します」
「それだけ?」
「他に必要な処理がありますか」
「ないけどさ」
わたしは笑った。
その日。
ギルが初めてわたしを心配した日だったのか。
それとも。
もっと前からそうだったのか。
今でも、わたしには分かりません。
でも先生。
たぶんあの頃から。
ギルの中では、何かが少しずつ変わっていたんだと思います。
わたしがそれに気づくのは。
もう少し後のことでした。




