第1話 あの頃
お久しぶりです。シュナイダー先生。
先生にこうして手紙を書くのは、何年ぶりでしょうか。
わたしは今、結婚して、穏やかに暮らしています。
朝になれば食事を作って。
買い物に出かけて。
たまに夫と喧嘩をして。
あの頃のわたしからは、想像もできなかったような、ごく普通の毎日です。
でも、ときどき思い出します。
まだ十三歳だった、あの頃の日々を。
街の外では戦争が続いていて。
わたしは何千もの敵を相手に魔法を撃って。
そして――。
わたしの隣には、いつもギルがいました。
* * *
「リナ。止まってください」
「え?」
十三歳のわたしは、その日もよそ見をしていた。
王都中央通り。
石畳の大通りには、朝からたくさんの人と機械が行き交っている。
荷台を引く運搬機。
両腕に箱を抱えた配達機。
食堂から食堂へ空の食器を運ぶ給仕機。
交差点では、人間ほどの大きさの交通整理機が、胸についた三色灯を点滅させながら両腕を動かしている。
そして道路には、丸みを帯びた金属製の車両が何台も走っていた。
「危険です」
「だから、何が――」
わたしが振り向いた、その瞬間。
目の前を配送車が走り抜けた。
「うわっ!」
襟の後ろをつかまれた。
身体がふわっと浮く。
そのまま後ろへ引き戻される。
振り返ると、そこには大きな黒い機械が立っていた。
わたしよりずっと大きい。
高さは三メートル近くある。
厚い装甲。
丸みを帯びた肩。
頭部には人間の顔の代わりに、二つの青白い視覚灯がある。
王国軍戦術護衛機甲第七型。
機体番号G-07。
でも、わたしはそんなふうに呼んだことは一度もない。
「ギル! 急に引っ張らないでよ!」
「急に道路へ進入したのはリナです」
「ちゃんと見てたもん」
「配送車との距離、一・三メートルでした」
「当たってないでしょ」
「私が停止させたためです」
「……そうだけど」
「したがって、私の判断は適切です」
「もういい!」
わたしは頬を膨らませて歩き出した。
ギルもついてくる。
大通りを歩いていても、誰もわたしたちを珍しそうには見ない。
機械が人間と並んで歩くこと自体は、この国ではごく普通のことだからだ。
前を歩いているおばあさんの隣にも、買い物袋を三つ持った小型機械がいる。
反対側の歩道では、小さな男の子が掃除機械の後ろを追いかけている。
ギルは一般用の機械よりかなり大きいけれど、それでもせいぜい、
「ああ、軍用機か」
と思われる程度だった。
「リナ」
「なに?」
「歩行中のよそ見を控えてください」
「まだ言うの?」
「同じ事故を防止するためです」
「ギルってしつこいよね」
「護衛機ですので」
「関係ある?」
「あります」
即答だった。
わたしはため息をついた。
物心ついた時には、ギルはもうそばにいた。
だから、わたしにとっては大きな機械が隣を歩いていることの方が普通だった。
いつからいたのかなんて、覚えていない。
後で聞いた話では、わたしがまだ言葉もろくに話せない頃には、すでに護衛についていたらしい。
そして正式名称を言えなかった幼いわたしが、勝手に「ギル」と呼び始めた。
らしい。
わたし自身は覚えていない。
「リナ」
「今度はなに?」
「目的地を通過しました」
足を止めた。
振り返る。
十メートルほど後ろに、パン屋があった。
「あ」
「よそ見を控えるよう推奨します」
「うるさい!」
ギルと一緒に戻る。
パン屋の扉を開けると、小さな鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
人間ではなく、店員機が頭を下げた。
胸の高さほどしかない小型機械だ。
奥では人間の店主が焼き上がったパンを棚へ並べている。
「あら、リナちゃん。今日も来たの?」
「うん。いつものある?」
「もちろん」
店主のおばさんが紙袋を差し出してくる。
中には小さな焼き菓子が五つ。
「はい。蜂蜜入り」
「やった!」
「食べすぎないのよ」
「今日は一個だけ!」
横からギルが言った。
「昨日も同じ発言を確認しています」
わたしはゆっくりギルを見上げた。
「ギル」
「はい」
「余計なこと言わない」
「昨日は五個すべて摂取しました」
「報告しなくていい!」
店のおばさんが笑った。
「本当に仲良しねえ」
「どこが!」
「護衛任務を遂行しているだけです」
わたしとギルの声が重なった。
おばさんがもっと笑った。
わたしは一個目の焼き菓子をかじる。
甘い。
焼きたてで、まだ少し温かい。
「おいしい!」
「良かったわね」
わたしはギルを見る。
「食べる?」
「摂食機能はありません」
「知ってる」
「では、なぜ質問を?」
「匂いくらい分かる?」
「大気成分の解析は可能です」
「そういうのじゃなくて」
「質問の意図を理解できません」
わたしは焼き菓子をもう一口食べた。
「甘いって、どんな感じなんだろうとか思わない?」
「思いません」
「即答するなあ」
「味覚機能が存在しないため、必要性を確認できません」
「つまんない」
「申し訳ありません」
「そこ謝るところじゃないよ」
いつもの会話だった。
この頃のわたしは、ギルに心があるなんて考えたこともなかった。
機械は機械。
話せる。
動ける。
わたしを守ってくれる。
でも、それだけ。
少なくとも――。
わたしは、そう思っていた。
* * *
「また菓子を食ってきたな」
王国軍第三整備棟へ入った瞬間、油まみれの男が言った。
「なんで分かるの?」
「口元」
「あ」
わたしは慌てて袖で拭いた。
ギルが言う。
「衣服で口元を拭く行為は衛生上推奨できません」
「ギルは黙ってて」
「了解しました」
整備士の男が笑った。
ローデン・ハルツ。
四十二歳。
ギルの専属整備士だ。
機械相手にはものすごく丁寧なのに、人間相手にはだいたい雑。
特にわたしには雑だった。
「ほら、七号。こっち来い」
ギルが動かない。
ローデンさんが眉を上げた。
「どうした?」
「呼称を確認できませんでした」
「は?」
「私の呼称はギルです」
わたしは焼き菓子を喉に詰まらせそうになった。
「え?」
ローデンさんもギルを見る。
「お前、正式登録はG-07だろ」
「はい」
「戦術護衛機甲第七型」
「はい」
「俺はずっと七号って呼んでるぞ」
「はい」
「じゃあ何で今さら」
ギルが数秒黙った。
「……不明です」
「なんだそりゃ」
ローデンさんは頭をかいた。
わたしはニヤニヤしながらギルを見る。
「ギル」
「はい」
「ギル」
「はい」
「ギール」
「はい」
「へへ」
「意味を確認できません」
なんだか嬉しかった。
理由は分からない。
ずっとわたしだけが呼んでいた名前を、ギル自身も自分の名前として扱ってくれた気がしたからかもしれない。
「まあいい。ギルでも七号でも、右腕見せろ」
「了解しました」
ギルが整備台へ向かう。
ローデンさんが右腕の装甲を開いた。
中には何本もの配線と、小さな歯車、光る回路が詰まっている。
「また迎撃やりすぎたな」
「必要な迎撃でした」
「そりゃ分かってる。お前は毎回そう言う」
「護衛対象への攻撃を七十二件確認しました」
ローデンさんがわたしを見る。
「お前も少しは避けろ」
「無理だって」
「魔法で何とかならんのか」
「見えてたらね」
これが、わたしの弱点だった。
魔力だけなら、たぶんこの国の誰にも負けない。
というより、自分でもどれくらいあるのか分からない。
生まれた時に測定したらしいけれど、測定器の針が上限まで振れて、そのまま戻らなかったという。
二台目も。
三台目も。
それで王国は、わたしの魔力量について測定不能という結論を出した。
実際、これまで魔力切れになったことは一度もない。
でも。
それ以外は普通だ。
足が速いわけでもない。
剣が使えるわけでもない。
矢を見てから避けるなんて無理。
崖から落ちたら、たぶん普通に死ぬ。
だから、ギルがいる。
「リナ」
「ん?」
整備棟の入口から声がした。
背筋を伸ばした軍服の男が立っている。
セドリック・ヴァン准佐。
王国軍における、わたしの担当官。
任務の説明から生活上の許可まで、大抵のことはこの人を通す。
怖そうな顔をしているけど、意外と優しい。
ただし笑うのがものすごく下手。
「出撃命令だ」
「今日?」
「ああ」
「ギル、整備中だけど」
ローデンさんが手を上げた。
「あと十分で終わる」
「だそうだ」
わたしは残っていた焼き菓子を見る。
「食べてからでいい?」
セドリック准佐はわたしを見た。
焼き菓子を見る。
またわたしを見る。
「五分で食べろ」
「やった」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってるって」
「お前の『分かっている』は信用していない」
「みんな同じこと言う!」
ローデンさんが笑った。
ギルが言った。
「妥当な評価です」
「ギルまで!」
戦争は続いていた。
それでも。
こんな時間は、いつも通りだった。
* * *
一時間後。
わたしとギルは王都北方、第二防衛線の丘に立っていた。
空は曇っている。
遠くに敵軍が見える。
さっきまでの街の騒がしさは、もうない。
セドリック准佐たち王国軍は、わたしたちよりずっと後方にいる。
わたしの存在は敵国には伏せられている。
王国側も、わたしを大々的な英雄にするつもりはない。
理由は簡単だ。
わたしは軍隊相手には強い。
でも、寝ているところを刺されたら死ぬ。
毒を飲んでも危ない。
だから敵に正体を知られない方がいい。
「ギル」
「はい」
「何人?」
ギルの視覚灯が細く光った。
頭部が僅かに左右へ動く。
「索敵開始」
数秒。
「前方、敵性反応二千三百十一」
「多いね」
「右側面百八十二。左側面九十四」
「後ろは?」
「王国軍のみ。敵性反応なし」
「了解」
わたしは前を見る。
敵兵が動き始めている。
遠い。
顔なんて見えない。
でも。
ギルが場所を教えてくれれば分かる。
意識を集中する。
一。
十。
百。
視界の中。
敵一人一人に、小さな光の印が重なっていく。
五百。
千。
二千。
二千三百十一。
「前、全部捕まえた」
「確認」
わたしの周囲に魔法陣が浮かぶ。
一つではない。
十でもない。
数え切れないほど。
炎。
風。
光弾。
敵の装備や位置に合わせ、わたしが使える魔法を振り分ける。
「側面はこちらで対応します」
「お願い」
わたしは右手を上げた。
「いくよ」
「はい」
手を振り下ろす。
空が光った。
無数の魔法が、一斉に飛んでいく。
爆発音が連続する。
大地が揺れる。
敵軍の進軍速度が一気に落ちた。
その時だった。
「リナ。右へ二歩」
「え?」
「今すぐ」
言われた通り動く。
直後。
わたしが立っていた場所へ一本の矢が突き刺さった。
「うわ」
「敵狙撃手を確認」
ギルの右腕が開く。
内部から銃身が伸びる。
一発。
遠くで何かが倒れた。
「排除完了」
「……ありがと」
「護衛任務です」
「それでもありがとう」
「感謝は不要です」
「じゃあ勝手に感謝する」
「了解しました」
わたしはまた前を向く。
敵はまだいる。
「ギル」
「はい」
「次、何人?」
「前方七百二十一。後退を開始しています」
「じゃあ、逃げ道を開けながら撃つ」
「了解しました」
わたしは標的を捕捉する。
ギルは背後を見る。
いつもの形。
わたしは前だけ見ればいい。
後ろを見る必要はない。
だって。
そこにはギルがいるから。
* * *
先生。
今になって思えば。
あの頃のわたしは、少し不思議な環境で生きていたんだと思います。
十三歳で戦場へ出て。
何千人もの敵を相手にして。
国家機密なんて呼ばれて。
それなのに。
戦いが終われば、焼き菓子を買いに行って。
道路へ飛び出しそうになってギルに怒られて。
ローデンさんの整備を邪魔して。
セドリック准佐に叱られて。
そんな毎日でした。
あの頃のわたしにとって、それが普通だったんです。
そして。
朝起きても。
街へ出ても。
戦場へ行っても。
眠る時も。
わたしの隣には、いつもギルがいました。
ずっと、それが当たり前だと思っていました。




