18.下衆の利
「な、何でも答えますぅー!」
男は、アードの足を舐めんが勢いで跪き——たかったようだが、央世の腕が邪魔をした。がっちりとロックされたまま前に出ようとする姿は、まるでリードが絡まった犬である。
「ふむ。頃合いなのじゃ。旦那様、もうそろ離しても問題ないのじゃよ」
「お、おお……」
央世の腕が離されると、男は床へ崩れ落ちるように——ベタッと張り付くように、土下座のような格好となった。
すると、そのままカサカサと、ゴキブリのような動きで、アードの足元へとにじり寄る。
「……うわ、なんだコイツ……」
央世の表情筋が、ピクピクと引き攣っていた。筋肉痛にでもなりそうである。
「どうかご褒美をォ……」
男は、アードの足先に顔を近付けた。ゾルンッと舌を出して——舐める——つもりだろうか。舌先から、涎が垂れ延びて——ぽたりと床に落ちた。
「調子に乗るでないのじゃ」
——パゴッ!
「キャインッ」
アードの足先に、男の舌が触れる——その瞬間。アードの足は、そこにはなく————振りかぶられていた。そして、美しい弧を描く。勢いよく振り抜かれたその小さな足は、男の左頬に炸裂した。
蹴られた男は、犬のように鳴いた。
央世の目は、道端に放置された吐瀉物を見るようだった。
「旦那様や。知りたいことを訊くがよいのじゃ」
アードは、いつもとは違い、妖艶な笑みを浮かべていた。
「お、おう……」
央世は、ひくつきながらも、気を取り直すべく——大きく息を吐いた。
「なぁ、あんた。オレん家に石投げ込んだ奴らは、仲間だよな? オレは19時に、ここへ来いって指定されたんだが……」
央世が男の前に、しゃがみ込んだ。
「誰を拐ったんだ? オレの女を預かったとか書いてあったが……。オレに女はいないんだ。目的はなんだ?」
そして、眼光鋭く、男の目を覗き込んだ。——いや、『ガンつけ』や『メンチ切り』といった類いに近かった。
央世は、素行不良という感じでもないが、一体どこで覚えたのやら。
「あ? てめぇ、昨日ここで暴れたって奴か?」
男が、眉間に皺を寄せながら聞き返した。こちらは本物だ……というアピールなのだろう。
——だが。
それは、悲劇を生む。
——トットッ……グサッ!
アードが、軽やかに男の背後に回ると、四つん這いだった男の臀部の——割れ目の中心に向けて、爪先を——刺した。……そう。刺したのだ。ズップリと。
「ギャヒィン?!」
男は、啼いた。
「訊かれたことにだけ答えておればよいのじゃ」
アードが、爪先を勢いよく抜き去りながら、冷たく吐き捨てる。
「くぉ……ぉん……!」
男は尻を押さえながら、顔をこれでもかと歪め、失敗した犬のような——妙な声を出して、悶絶していた。
央世の瞳は絶対零度。公園や道端に残された排泄物でも見ているようだった。
アードは、くねくねと芋虫のようになっている男を見ながら、不敵な笑みをこぼしていた。
「……お、同じだ、さっきの女と! 債務者の女だ! 19時から撮影の予定が入ってんだ! てめぇらボコして、それ系の動画に……」
芋虫が言葉を取り戻したようだった。芋虫男は身体を捩りながら、ドロドロと漏らしだした。
「確か……未亡人とかいう、わりといい女だったはずだ……。ついでに、もう一人19時に捕まえられるかもってよ……。だから結構な稼ぎになるはずっつって幹部が……」
そして更に、モコモコと漏らしていく。
——未亡人。もう一人。幹部。央世の脳内が、目まぐるしく動いた。普段の二倍ほどは稼働しているだろう。
(未亡人って、北条さんのことだよな。もう一人来るってのは、多分アードのことだろうな……。昨日一緒にいたからな。てか、暴れた、か……)
「でもよぉ……俺ァ担当が違うからよ……。詳しくは知らねぇ……。俺らぁ撮影班だかんよ……」
空間が——満たされていった。男の放つ——悍ましく、凄まじい殺気——ではなく。臭気に。
「……うっ。よ、要するに、あんたは、あんまり知らねぇってことだよな?」
央世は、少しフガフガした声だった。見れば、鼻をつまんでいた。それも仕方ない。
「なんじゃこやつ……。これは……強烈、じゃの……。ぬー。わらわ、出るのじゃ……」
アードは、顔を顰め、パタパタと手で扇ぎながら、プレハブを出ていってしまった。
「……あぁっ?! そんな、女王様ッ……」
男は、去りゆくアードの背に向かい、ブルブルと右手を伸ばした。その姿はまるで、世界から見放されたようだった。
「まぁ、あんたらがろくでもねぇのは、よーくわかったよ……」
そんな絶望の表情を浮かべる男の顔の横には、央世の丸太のような脚が聳えていた。そして、その巨木が——ゆらりと動いた。
——コォン!
「……カッ」
央世の腕がゆらりと振られた、次の瞬間。男は——再び眠りについた。央世の手刀か何かが、後頭部を襲ったようだった。
プレハブから出た央世は、そのプレハブを見ながら腕を組んで悩んだ。
時刻は18時51分。
自身で蹴破ってしまった扉を、閉めたかったらしい。扉だったモノを前に、ぐりんぐりんと首を捻る。
「……ぬ? どうしたのじゃ旦那様」
そんな央世に、アードが不思議そうな顔で訊いた。
「いや、ここ……閉じ込めておきたいなー……ってさ。開きっ放しだと、あいつら起きたら面倒だろ?」
央世は、せっかく眠らせた中の者たちを、閉じ込めておきたいようだ。
「ふむ。わらわのちからなら、能わぬでもないのじゃが……」
アードもつられてか、腕を組んだ。
「……それをすれば、おそらく……動けなくなるのじゃ。しばしの休息が必要となるじゃろうなー」
そして、そう言って目を閉じていた。
——央世の目が、光った。気がした。
「おお。じゃあ、やってくれ。扉、直るのか?!」
央世は、何やら思い付いたようだ。瞳がキラリと輝いた。
「おお? 旦那様がそのようなことを言うなど、初めてなのじゃ! わらわ頑張るのじゃ! ░░░░░░……」
央世に期待の眼差しを向けられたアードは、嬉々として声を紡いだ。
淡い光に包まれたアードが、扉に触れる。みるみるうちに、壊れた扉が復元していった。
——いや、復元とは違うのだろう。色も違えば形も違う。どちらかと言えば、生成だった。素材から新たなものを生成したのだろう。制服を作った魔法と同種といったところか。
「……ふにゅう……。やはり疲れたのじゃ……」
頑丈そうな鈍い輝きの壁となったソレから、ちからなく手を離したアードは、ふらりと床へ——身体を投げ出しそうになった。
「おっと。ごくろうさん」
それを、そっと央世が抱きとめた。
「……おお、よきさーびすなのじゃ」
ひょいっとアードを抱き上げて、央世は裏口へとスタスタ歩いた。
そして、裏口を開けると、外のプレハブ横まで歩く。
「……まぁ、ここで休んでてくれ。終わったらまた来る」
すっと、央世はアードを地面に下ろした。
「うむぅ……。旦那様が繋がってくれるほうがいいのじゃがのー……」
アードの紫の瞳が、甘く濡れた。
「そんなわけにいくか。こっからが本番ってやつらしいからな」
央世は、言いながら倉庫を睨んだ。
「詮無きことじゃのー。わらわも、旦那様と何度も繋がって、分かっておるのじゃよ。旦那様が、どのような御仁か」
アードは、トサッと大の字に寝転んだ。草の上である。
「しばし……こうしておるゆえ、旦那様の気の済むようにしておればよいのじゃ」
暗雲の立ち込めた夜空には、星ひとつない。アードは、ゆっくりと目を閉じた。心做しか、その小さな身体と、周囲の草が、発光しだしたような気がした。
「ああ。ありがとな」
央世は、立ち上がると、再び倉庫へと向かう。
18時55分。その時は、本当にもうすぐなのだろうか。
黒一色を着込んだ央世の背中が、暗闇に——ぼやりと溶けていった。




