17.18時40分
女性が——震える手を懸命に伸ばし、央世の手をはっしと掴んだ。再起動したようだ。
「……あ、ありがとう……ございます……」
20代前半くらいだろうか。
あまり似合っていない派手な化粧が涙で崩れている。元は派手な色だったのであろう上下のセットは色褪せていて、シワの目立つシャツは、少し黄ばんでいた。
売れない水商売女の風体だった。
「……何があったか知りませんけど、早く逃げたほうがいいっすよ」
央世は、ひょいっと女性を立たせながら、柔らかくそう言った。
――ピチャッ
女性の足下に、水溜まりが出来ていた。薄らと黄色いようだ。
「ぬ? 妙なにお――」
アードが顔を顰めた。
「おい、黙れアード。そういうこと言うな」
そんなアードに、央世は小声で鋭く言い放った。
「むー……。なんじゃ旦那様ー。わらわにひどいのじゃー」
アードは頬を膨らませて、唇を尖らせる。央世は、キッとアードを一瞥し、そして女性に微笑んだ。
「……ご、ごめんなさい……」
女性は、アードの言葉に——深く俯いた。涙の痕が拡がりそうだ。
「あ、いや、ほんと……気にしないでください。むしろすんません。アイツちょっと変なんで。それよりも、早く逃げた方がいいですって」
央世は、プレハブの外へと女性を促す。
女性は水滴を垂らしながら、一歩……二歩……と、脚を動かした。
プレハブから漏れる光だけが頼りの倉庫内を抜けて、裏口へと歩く。先頭は央世。その後に女性。アードは殿の位置だ。
「……あの、あなたたちは……? ここで、何を……? なんで……助けてくれたんですか?」
女性が小声で、央世の背中に話しかけた。
「……あー、オレ……は、ここに呼び出されたんですよ。あの小さい女は……ついてきただけっすね」
央世が親指で、アードを背中越しに指す。
「……呼び……出された?」
女性が、顔を上げた。央世の大きな背中が視界に映る。
「えっと、なんか脅迫文? みたいなのが、家に……」
「脅迫文……?」
「もうすぐ時間なんで。だから早く逃げたほうが……ってことっすよ」
央世は、早くと言いながら、歩く速度は緩やかだった。警戒……というよりは、女性の頼りない歩行に合わせているのだろう。
少し重心を落としているのは、最早彼に染み付いた動作だ。本来は、その状態でも、もっと素早く動けるのだから。
「でも、わたし……きっとまた……」
女性が震える指先を合わせて、胸の前でグッと握った。
「また……って?」
央世が、一瞬振り返った。
「……わたし、借金……背負わされてる……から……」
女性は、ぽたりぽたりと、目の端から雫をこぼして、地面を濡らした。
「だから……撮影……するって……。動画を……売るって……」
——なるほど。……と、央世は思った。
こんなことは、創作でも現実でも、よく聞く話である。
「……大変そうですけど。今日のところは一旦帰って、風呂にでも浸かって、ゆっくりしてください」
央世はそう言いながら、裏口の扉を開けた。プレハブの明かりが、外に漏れる。
「えっ? いや、そんなこと……」
央世が開けている扉を潜りながら、女性が戸惑いの声を上げた。
「その恰好……ね?」
央世は、にっこりと微笑みながら、首を少し傾けた。
「……えっ? ……あっ……。はい……」
女性は、自身の下半身の惨状を見ながら、顔を赤らめた。
「……あの、ありがとうございました。あなたのお名前は……? わたしは——」
「あー! いいっすいいっす。そういうのはいらないんで。ホント、気を付けて帰ってください」
央世がブンブンと手を振りながら、女性を遮った。
「……いえ、でも」
「多分また、危ない奴らがすぐにくると思うんで……ね?」
央世の表情が、薄い笑顔から——ふっと真顔になった。
「……わ、わかりました。では、あなたもお気をつけて……」
女性は一歩後退り、礼を告げると、央世たちが来た道を——闇に紛れるように、歩いて行った。
央世は、その背中を見送りながら、その闇の先を見据えていた。
そして、小さな足音が消えると、首と目線だけで——無言でアードを促し、扉の中へ戻った。
「ぬ? 旦那様、どうするのじゃ?」
央世の背中に、アードの声がコツンと当たる。
「ひとり起こして訊く」
央世は、短く答えながら、足早にプレハブの方へ戻っていく。足音は、極小だ。
「なるほどなのじゃ」
にたりとアードの口角が持ち上がり、三日月を描いた。
18時40分。
実に手早い制圧と解放だった。
央世はプレハブに戻ると、顎を掌底で打ち抜いた男の上半身を起こした。
「……よっと」
そして、背後に回ると、男の背中を一気にグイッと反らせた。
「……くはっ?!」
所謂、気付けだったらしい。男が目を覚ました。
「なあ、あんた。あんたらは何者だ? ここで何をしてた?」
央世は、静かに——地を這うような声で、訊いた。
「……んなッ?! な、なんだてめ……え?!」
男は、状況の認識が出来ていなかった。
気絶からの復帰だ。当然ではある。
が。首元の違和感には、いち早く気がついたらしい。
——そこには、央世の太い腕が回されていたのだった。
「質問してるのは、こっち。……で? 時間ないし、答える気がないなら、このまま……」
グッと、央世の腕が硬くなった。
「おっ……俺らは、金融屋だ!」
男は、悲鳴のような声だった。
「金融屋……か。闇金ってやつか?」
「あ゙ぁ?! て、てめぇ……あんまナメてんじゃねぇぞ! 俺らぁ、中村さんの……ヴッ……!」
央世の腕が、ギリッと男の首に食い込んだ。
「中村って、中村組とかいうアレか? 半グレ?」
「は、半グレっつーんじゃねぇよ! 愚連隊って言えや!」
男の顔色が赤く染まる。
「それ、同じだろ……」
央世は、心底どうでもよさそうに呟いた。
「んで、その中村組が何してたんだ?」
そして、訊くべきことを訊く。
「あ゙ぁ゙?! 資金作りに決まってんだろが」
男は、精一杯凄んだ。だが、央世の腕を掴む手は震えていた。
「女を攫ってか?」
央世の声が、冷たく重くなった。その瞳は、虫を見るようだった。
「ケッ……そりゃ人聞きが悪りぃな。俺たちは効率がいい金稼ぎを斡旋してやってんだからよぉ」
男が、にちゃりと下卑た笑みを浮かべた。その声はどこか挑発的だった。
「……なんだと? ふざけたこと——」
央世の声に、熱が入った。その瞬間。
「旦那様ー。まどろっこしいのじゃ。わらわに任せるがよいのじゃ!」
アードが、うんざりとした声をだした。そして、一歩前に出た。
「お? なんだ? ガキのクセにずいぶんいい女じゃねぇか」
男がアードを値踏みするように、全身を見回した。
「いや、アード。ダメだ。オレがやる」
だが央世は、アードに魔法を使わせたくはないのだ。その顔は、頑なだった。
「あー……。旦那様、だいじょうぶなのじゃ。このような下郎は……」
アードが、つかつかと男の前に歩み寄った。
「こうするのじゃ!」
——パチィン!
「いってぇ?! なにしやがんだ?!」
それは、ビンタだった。
叩かれた方向へ捩じれた首を引き戻し、男はアードを睨みつけた。つつっと赤い液体が、口の端から滲んできていた。
「……お、おい、アード?!」
困惑した央世を置き去りに、アードは男を果てしなく見下しきった笑顔で——実に楽しそうだった。
「しゃきしゃき話せばよいのじゃ、この下郎がっ」
——パチィン!
「アアッーー!」
男が、身を捩った。びくんびくんと、身体が跳ねている。——央世の、腕の中で。
——パチィン!
「さぁさぁ! 素直になるがよいのじゃ!」
アードは瞳を輝かせながら、なおも男の頬を張る。小さな手のひらの痕が、くっきりと付いていた。
「……も……」
男が何か——おかしな声色で呟いた。
——パチィン!
男は、顔を正面に戻す。
何かが、おかしい。
目だ。
とろりとした目でアードを見詰め——
「……も、もっとぉ……」
甘える犬のような声で、懇願した。
「……えっ? キモッ……」
央世は、ドン引きしている。
「ほぉう? ご褒美が欲しければ、質問に答えるのじゃなー! くははっ」
アードは、愉しそうに嗤っていた。




