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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
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正当な制裁 ~非難や罰が悪にならないために~

 悪意志のもち主を特定したところで、次はそうした悪意志に責任を負わせる方法について考えよう。

 非難や罰は人為的にリスクをつくり出す行為だから、一見すると客観的目的に反するようにも思える。困ったことに、外形的には、非難や罰は悪行となんら見分けがつかない。

 こうした行為を悪行と区別するためには、いくつかの条件を満たす必要がある。


 第一に罰せられる本人が、当該行為が間違った行為で、罰せられうるものだと気がつくのが可能でなければいけない。

 第六章でリスクの存在を地雷にたとえたが、たとえ地雷が埋まっていたとしても、埋まっている場所が日々の生存活動に必要な場所から外れていて、どこに埋まっているのかがあらかじめ看板で示されていたとするならば、あえて埋められた地雷があったとしても、生存の障害リスクにはならないはずだ。


 第二にほかに選択できた行為の中に、よりよい行為があったのでなければいけない。つまり免責条件にあげた論理必然性がないことが必要ということだが、このことは非難や罰を与える際には、しばしば忘れ去られる。

 道徳範囲を拡大することは、原則として当人の不利益にはならない。しかしもしとがめられている行為をしなければ、みずからに大きな不利益があった(主観的目的に反していた)としたら、その行為をしたことを罰せられるいわれはない。

 非難や罰は、それによって別の行為を強要するためにおこなわれる。重大な不利益があるような行為を強要する人は、そもそも相手のことを道徳範囲から外しているのだから、そのような要求には正当性がない。

 非難や罰にはその場で異なる特定の行為を強要するだけではなく、とがめられるべき手段に不快の印をつけさせ、次からは(つまり未来一般に対して)異なる手段をとるように学習させるという意味もある。第七章で説明したように、不快の印に意味が出るのは、代替手段があることを知っているときに限られる。主観的目的に反しないような別の手段がなければ、いくら非難や罰によって不快感を与えられたところで、同じことを繰り返さざるをえないだろう。人間は決して、不利益を強いてくるような社会(他者)のために行動するようには、できていないのだ。


 現実の法治主義国家では、第一の条件は罪刑法定主義として取り入れられているし、第二の条件にしても、不可抗力と認められれば緊急避難として免責されたり、情状酌量の余地ありとして、量刑が軽くなるといった形で考慮されている。

 こうした条件は当人の自由意志によって、つまり最善の経路を選択することで容易に避けることが可能なものだったなら、社会上のリスクではないとみなせるという考え方を前提にしている。反対に本人の意志ではコントロール不可能なことで非難されたり罰せられたりすることは、理不尽なことであり、それは悪となにも変わらない。


 だが実際には、罰を悪と区別するには、この二つの条件だけではまだ足りない。というのは第三の条件として、罰を与えることでその人に道徳範囲の拡大を促せるか、という観点も必要となってくるからだ。

 これは言い換えれば、再犯を防げるかを意識すべしともいえる(わかりやすいので先ほどから犯罪行為を例にしているが、犯罪とまではいかない道徳違反に対しても同様だ)。とはいってもすでに説明しているように、罰をこれ以上与えられたくないから行動を改めようと思わせるだけではたんなる他律であり、道徳範囲を拡大させることができない。

 もし罰によって道徳範囲の拡大を促せないとなれば、本人が責任を負わない以上は、社会(他者)が責任を負わなければならないということになり、具体的にそのような危険人物からは距離をとるようにしたり、社会的な隔離などが選択肢に入ってくることになるだろう。


 罰と隔離は、まったく異なる意味をもっている。前者は責任を負わせるためにおこなわれるが、後者は責任を負うまでのつなぎでの一時的な措置としておこなわれるか、責任を負わせるのが不可能と判断された結果としての、やむをえない措置としておこなわれる。

 しかし現実の社会では、この二つの区別は漠然としている。これは刑務所への収監が、一般には罰として認識されているものの、結果として隔離の効果も同時に発揮していることにも一因があるように思われる。実際は社会上のリスクを減らすという目的に安定して寄与しているのは隔離の方(しかし、効果があるのは隔離している間だけ)なのだが、見かけ上は罰を与えたことでリスクが減っているようにも思えてしまうためだ。


 たんに罰を強力にすることが、犯罪者の更生に役立つと安易に考える人も多い。

 だがそう単純な話ではないのは、前々章および前章の内容からも、あきらかだろう。罰を与えることを犯罪行為忌避の直接の動機にしようとしても、他律的な動機しか生まない。罰はあくまで、本人に自分の選択のなにかが間違っていると気づかせるきっかけとして役立つにすぎず、本当に責任を負わせようとするなら、異なる手段も必要になってくるだろう。ただ罰を与えること以上の目的を意識しない限り、そのための手段は決して見つからないだろう。

 ポール・ブルームが指摘しているように、人間は、罰が現実に与える影響に驚くほど無頓着だ(実際にそのことを確認した研究もある*1)。罰を与えること自体が目的化すると、悪となにも変わらない。


*1 ポール・ブルーム『ジャスト・ベイビー』101頁。


 カントがわたし達の実践理性の理念に含まれているとした、悪いことをした人間が罰を受けるのは当たり前で、悪いことをした事実が罰に値することの直接の根拠になるのだという考え方(*2)は、応報主義と呼ばれる。

 彼は罰は犯人の幸福を部分的に損なうものだとして、犯罪行為をすることは犯人自身の不利益になる罰をもたらすがゆえに犯罪行為をするべきではないとするような、先に他律をもたらすとしたような考え方を、不合理だといって否定する。

 とはいえ罰によって責任を負い、それによって周囲からの信頼を取り戻すことができたなら、その後の犯人自身の利益にもつながりうるため、罰が必ずしも本人の幸福を損なうとは限らない。

 それに罰そのものに関しても、たしかに不利益を与えれば不快感も与えられることが多いため、不利益を与えることが罰として機能するということも当然あるにせよ、不快感を与えることさえできればいいので、罰にとって不利益そのものは本質的な要素ではない。不利益と不快感は区別可能なので、不利益のない不快感というものもありえ、したがって不利益のない罰という概念もありうる。

 とかく応報主義という考え方は、しばしば罰の目的を見失い、暴走しがちだ。そうならないためにも、だれかに制裁を加えようとする際には、なんのための罰なのか、非難することにどのような意味があるのかを、つねに意識しておく必要がある。


*2 カント『実践理性批判1』(中山訳)110~111頁。


 罰は、道徳範囲を拡げるためにある。そうした目的に資するのでなければ、なんの意味もない。ただ闇雲に悪いことをしただろう人を責めていくのではなく、社会上のリスクを減らしていくために、賢く非難や罰を使っていかねばならない。

 悪に陥らずに罰するためのポイントとしては、相手の立場になって罰するというものがある。罰とは不快感を与えることで、ほかの手段をとらせようとするものだ。相手の経路を推論することではじめて、ほかの手段がありうること、なにが可能でなにが不可能かを知ることができる。

 したがって共感と罰は、両立可能だといえる。たとえ相手が間違っていたとしても、共感しながら罰することではじめて、やり過ぎることのない(前章で説明したように、目的を見失ったところに過大が生じる)、正当な罰が可能となるだろう。非難や罰の相手さえも道徳範囲に含めてようやく、その行為は正当性を主張できるようになる。


 目的もしくは共感の欠けた非難や罰がもたらすものとして、批判と誹謗中傷の区別がされていないことが、しばしば問題になっている。

 この問題を考えるときにまず前提に置いておきたいのは、人が傷つくのは言葉そのものによるわけではなく、その言葉から推論される悪意志の存在、自分に対して悪意が向けられていると認識することによるものだということだ。

 つまり自分の目的に十分な配慮をしていない人が存在することによって、社会の価値が下がることを、「傷つく」といっているわけだ。そのため同じような発言内容であっても、自分を害する目的ではない、あるいは発言者はその言葉が相手を害すると気づいていないだけで、そのことを認識するならすぐに改めるだろうことを期待できると考えられるなら、人は傷ついたりはしないだろう。

 人は相手の言動から、もっとも整合性の取れる意志を推論する。もし口先だけで意図をごまかそうとしたとしても、ほかの言動と照らし合わせることで、その嘘は見破られる。本心から正しい意志をもって非難しなければ、やはりたんなる中傷と判断される確率は高い。


 正当な非難とたんなる中傷の区別がつかないという人はおそらく、応報感情にもとづいて非難しているためだろう。

 感情は外的な事象に直接に反応して、自動的にわき上がる。つまり「こいつは間違っていることをした、だから非難しよう」というような思考になっている。そこには正しい目的が欠如しているし、相手への共感(意志の推論、つまりなぜその人がそのようにしたのかの推論)もない。

 意志のあり方ではなく行為が非難の根拠となっているために(いうまでもないが、ふるまいを根拠にしてはいけないとか、人格攻撃をしろということではない)、非難が形式的におこなわれ、非難者は対象の人にはほかにやりようがなかったとしてもそのことに気づけないので、無意味で理不尽な攻撃になりやすい。それゆえに第二の正当化条件ほかにやりようがあったことが満たされず、ただの人格否定に陥りやすくなる。


 だれかを非難する際には「この非難はなにを目的にしているのか」「自分は非難することによって相手にどうしてほしいのか」という二つの問いに答えられるのかを考えることが、正当な非難とたんなる中傷を区別するのに役立つだろう。

 目的を意識することによって、相手がどうやっても変えられないことへの批判、ただ傷つけることだけを目的にした行為、すなわち誹謗中傷の無意味さにも気づけるようになるはずだ。

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