「判事たちと暴徒」再考、悪意志の推論および最善の帰結から責任の所在を特定する
(「判事たちと暴徒」再考)
ここまでの方法を用いて、「判事たちと暴徒」で誰に責任を負わせればいいのかを考えてみよう。
まず冤罪で投獄される人がいるという結果に対しては、判事による有罪判決が必然性を付与していると考えられる。有罪判決を下さないということは、可能だった。というのも有罪判決を下しても暴動が起こることは確定せず、暴動に必然性を付与することにはならないからだ。
「判事たちと暴徒」の文章内ではさも確定しているかのように書かれているが、判事や警察署長に未来予知の能力があるわけでもあるまい。未来の出来事が、そのときになる前に確定しているということは、現実ではありえない。
もし判事や警察署長が、有罪判決を下さなければ暴動が起こる可能性があるということを認識していたとしても、有罪判決を下さなくとも、暴動を起こすかもしれない人たちが責任を負うなら、暴動が起こらない可能性があるということも認識できたはずだ。
ここで「責任を負うなら」という条件がついているのは、暴動を起こさないことが道徳的に正しいということが、人間の一般的な認識能力において認識可能なことが前提になっている。因果系列で責任の所在を考える際の(3)の説明で、結果が予想できたのにあえて行為した場合も、教唆やあおりと同じ形になると述べたが、他者が責任を負うことを前提にすることが許されることで、このパターンからの区別が可能となる。
その結果を意図した場合と、他者が責任を負ってもその結果になるだろうと予想できた場合には、その行為者が自身の選択によってその結果を回避する責任を負う。しかしその行為によって影響されるかもしれない人が責任を負うことで、その結果を回避できると予想できるなら、無理に責任を負おうとする必要はない。
したがってもし判事が有罪判決を下さなかったばかりに暴動が起きたとすると、その責任は暴動を起こした人たちにある。暴動という結果に対する原因は、無罪判決という原因を考慮せずとも、人びとの暴動を起こそうとする意志だけで十分だ。
冤罪で投獄される人が現れなくとも、暴動を起こさないということは可能だろう。罪のない人が無罪となっても人びとが暴動を起こさないことは、そうした人びとの主観的目的に矛盾したりはしない。
よってその場合、暴動の責任は無罪判決を下した判事にはない。
(悪意志の推論から責任の所在を特定する)
因果系列から責任の所在を求める方法に関しては、因果系列のパターンがさまざまにあるために説明が長くなってしまったが、ほかの方法はもう少し簡単になる。
責任の所在を決める第二の方法では、直接に悪意志の存在を推論するという方法がとられる。つまり当事者の言動から意志のあり方、すなわち道徳範囲の広さを推論する。この推論は、客観的目的と行為の整合性を判定することによって可能となる。
もし判事が有罪判決を下したとしたら、判事は冤罪で投獄されるスミス氏を、道徳範囲から外していることになる。冤罪により投獄される人の主観的目的が尊重されていることと、有罪判決を下すという行為は矛盾するからだ。
他方で無罪判決を出したとしても、暴動による被害者のことを道徳範囲から外しているということにはならない。なぜなら暴動が起きないこと、暴動を防ぐことに成功することを期待することは、なお可能だからだ。両立可能なのだから、矛盾はない。
また全体的なリスクの数も、有罪判決を下せば確実に一つのリスクが発生するのに対して、無罪判決を下せば一つ(暴動)かゼロなので、無罪判決を下しても増えるわけではない。よって客観的目的との矛盾もない。
暴動が起きないことを期待した判断をおこなうことを道徳的とする考え方には、まだ納得できない人がいるかもしれない。しかし他者が道徳的であることを前提にして思考することには、現実的な合理性がある。
人は日々の活動では基本的に、他者の多くは道徳的に間違った行為はしないだろうと仮定した上で、自身の行動計画を立てる。コンビニで会計する際には、その蓋然性(確率)が一定程度あると考えさせる特別な事情がない限りは、店員が故意にお釣りをごまかす可能性を意識して買い物したりはしない。
なぜならそうでなければ、人間の認知資源や時間がいくらあっても足りず、社会生活がままならなくなるからだ。そのため人は現実的な制限として、特別な事情がないときに他者が責任を負っていることを前提に行為したために生じた結果に対しては、改善すべき点などないため、責任を負う必要がない。
ここでの特別な事情とは、特定の他者が責任を負っていない蓋然性が高いと考える理由があり、そう前提した方がそうでない場合よりあきらかにリスクを減少させることが期待できるような事情のことだ。スミス氏を投獄することのように、あきらかにリスクを増やさなければ回避できない場合には、「あきらかにリスクを減少させる」とはいえなくなる。それに加えて、だれかに危害を加える選択を回避しようとする判断の方が、社会のサポートも得られやすくなり、暴動を防ぐための社会的圧力もつくられやすくなるだろう。
以上から有罪判決が下されれば判事は悪意志をもっていると推定されるが、無罪判決を下した意志が悪意志だということにはならないことが結論される。
もし暴動が起きたなら、当然暴動を起こした人たちは悪意志をもっていると推定されるため、暴動を起こした人たちが結果に対する責任を負わなければならない。
誰かのためにおこなったことだからといって、その意志は善意ではあっても、善意志とは限らない。たとえ殺人被害者や遺族の無念を晴らすためだったとしても、道徳範囲の狭さ、誤った経路選択によって確定した意志は悪意志であって、したがって無実の人間に新たな被害を発生させる行為は、悪意志による行為だと判断される。こうして推定された悪意志に対して、責任を負わせることになる。
(最善の帰結から責任の所在を特定する)
責任の所在を決める第三の方法は、ありうる最善の帰結から逆算するというものだ。
そもそも「判事たちと暴徒」においてもっとも望まれる結果が、冤罪で投獄される人がおらず、暴動も起きないことだということについて、異論のある人はいないだろう。
ならばそのために必要なのは、判事が無罪判決を下し、暴動を起こそうとしている人たちが暴動を起こすのをやめること以外にない。このことに反する行為をした者、つまり判事が有罪判決を下したなら判事に、暴動が起きたなら暴動を起こした人たちに責任を負わせればいい。
判事が無罪判決を下したなら、たとえ暴動が起きたとしても判事は最善の帰結のために必要な選択をした(責任を果たした)のだから、責任を問われるいわれはない。判事が必要な選択をしたにもかかわらず最善の帰結にならなかったとするならば、それは判事以外の人に悪意志があったからだろう。暴動の責任は、その直接の原因となった悪意志のもち主に負わせればよい。
判事が有罪判決を下すことに関して、判事はほかにやりようがなかったと感じるとしたら、それはおそらく判事の行為のみで結果を操作しようとしているせいだろう。そのためそれ以外の人の選択が所与のものとなって、最善の帰結にまで考えが至らず、冤罪で投獄される人がいることに目をつぶらざるをえないと思うようになる。
だが道徳とは、同じ目的を共有することによる協力行為にほかならないのだから、判事だけで結果に対して責任を負うわけではない。
まずは判事が必要なことをやった。それでもうまくいかなかったなら、判事とは違う人に責任がある。あくまで結果をよりよいものにするための共同作業なのだから、それぞれに役割というものがあるのだ。責任はそうした目的に資するものでなければならない。
ここまでで紹介した責任の所在を確認する三つの方法は、あくまで十分条件であって、必要条件ではない。つまりこの三つのどれかに当てはまっていれば責任を負うべきだが、すべてに当てはまっていなければ責任を問えないわけではないし、それ以外に責任を負うべきケースが存在しないというわけでもないだろう。責任を負うことにどのような意味があるのかを、その状況ごとに考えていくことが重要だ。




