表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
96/151

因果関係から責任の所在を特定する(5) ~フランクファート事例の場合~

 認識能力との関係性を表す性質としての必然性という考え方によって、いわゆるフランクファート事例の問題も、きれいに理解することができる。


 ハリー・フランクファートは、責任と他行為可能性の関係について、従来の理解に疑問を呈するべく、次のような事例を用意した。

「ある誰か――ブラックと呼ぼう――が、ジョーンズにある行為をやらせたい、ということにしよう。ブラックは、自分の思い通りにするためなら、相当なことをやってのける覚悟があるが、不必要に自らの手の内を見せることは避けたい。だから、ジョーンズが何をするか心を決めるそのときまで、ブラックは待つ。そして、ジョーンズが決意しようとしている行為が、ブラックの望んでいるのとは別のものであることが明らかにならない限り(ブラックはそういうことに関する卓越した判定者だ)、ブラックは何もしない。もしジョーンズが別の行為を決意しようとしていることが明らかになれば、ブラックは効果的な手段を用いて、ブラックがジョーンズにやらせたいことを、確実にジョーンズが決意し実行するようにする。ジョーンズのもともとの好みや傾向がどんなものであれ、ブラックは自分の思い通りにしてしまうだろう」(*1)


*1 ハリー・フランクファート「選択可能性と道徳的責任」『自由と行為の哲学』91頁。元の文章で「ジョーンズ4」になっている箇所は、「ジョーンズ」に変えている。


 図示すると図9-3(5)のようになる。

挿絵(By みてみん)


 ここではブラックの存在によって、ジョーンズはほかのことをなしえない状態にされていた。ブラックの具体的な介入方法をフランクファートは明示していないので、戸田山やキャンベルに倣って(*2)なんらかのテクノロジー、たとえば遠隔操作によって特定の行為を強制できるような装置が、ジョーンズの脳内に埋め込まれているとしよう。


*2 戸田山和久『哲学入門』330~331頁。キャンベル『現代哲学のキーコンセプト 自由意志』47頁。


 ブラックの望んでいるとおりの行為をしようとジョーンズが決意したため、ブラックはなにもしなかった場合のことを考える。

 それでもほかの行為をしようとしてもできなかったわけだから、ジョーンズの行為はブラックによって強制されているともみなせるだろう。すると図9-1(2)と同じで、ジョーンズの行為は不可抗力によるものであって、彼の責任は否定されるようにも思われる。

 しかし彼はブラックによる介入がなくとも、同じ行為をしていた。そのためわれわれの一般的な感覚では、彼の道徳的責任が否定されるようには思われない。


 ジョーンズには、他行為可能性はなかった。だが彼にはあきらかに、彼の行為とその結果に対する道徳的責任がある。したがって他行為可能性は、道徳的責任の必要条件ではない。

 そのためある行為に責任があるのはその人が別のこともなしえた場合のみという原理は「別のことは為しえなかったということ<だけが理由で>そうしたのであれば、人格は自分の為したことに道徳的責任がない」(*3)という原理で置き換えるべきだ。これがフランクファートが、この事例をもち出すことによって主張しようとしたことになる。


*3 フランクファート「選択可能性と道徳的責任」『自由と行為の哲学』97頁。強調は引用者による。


 たとえば自身がブラックによって介入されようとしていることを、ジョーンズ自身が知っていた場合のことを考えよう。もしブラックによって自身の行為に介入する装置が、自身の脳内に埋め込まれていることをジョーンズは知っていて、そのためにほかの行為をしようとしても無駄だと感じたために、介入にあらがうことを諦めてその行為を実行したのだとする。

 この場合ジョーンズに責任を負わせようとするのは、なかなか酷に思える。もしブラックによって埋め込まれた装置が不良品であることがあとで判明し、きちんとあらがっていれば別の行為もなしえた可能性があることがわかったとしても、このことは変わらない。

 これは行為の理由になっている「ほかのようにはできなかった」ということが、それだけで行為の十分な理由になっているからだ。この装置のことを知らなくても同様の行為をしていたなら、装置以外にも行為の理由があったということだから、責任は否定されない。


 フランクファートはたしかに、この事例をもち出すことによって、行為の責任を問うには、行為者に他行為可能性があったことが必要だという考え方を否定することに、成功しているように思う。

 だが彼が否定した他行為可能性とは、あくまで<過去現在もしくは近い未来についての>他行為可能性にすぎない。そしてこの(行為後の評価時点から見て)過去の他行為可能性こそが、自由意志と責任の関係についての議論が錯綜する原因になってきたのだから、彼がこの考え方を否定したということは、意義のあることだろう。


 しかし本章でここまで主張してきたことを前提にすると、過去の他行為可能性は否定できても、この事例によっては<未来の類似の状況>における他行為可能性までを否定できるものではないということが、わかるはずだ。

 未来の類似の状況とは、過去と完全に同じ状況だけを指しているわけではない。つまりジョーンズがブラックによる介入可能性を知らずに、したがってブラックによる介入が結果的にされずにその行為をおこなったのだとすると、ジョーンズの意志のあり方は、ブラックの介入可能性のない未来の類似の状況においても、同様の行為をおこなう可能性があり、未来にとってのリスクになる。その意志に対して責任を負わせることは、将来のリスクを減らすことに役立つ。

 よってジョーンズは、過去の他行為可能性の有無にかかわらず、道徳的な責任を負う。


 必然性という観点から話すならば、ジョーンズはブラックによる介入の可能性を知らなかったのだから、ジョーンズの認識上は、自身の選択によって結果は必然性を帯びたと考えられる。だからジョーンズは、責任を負うべきなのだ。

 しかしもしブラックの介入可能性を知っていたのなら、ジョーンズの認識上は、その結果はブラックによる介入の意志で十分な原因となっているのだから、必然性を付与したのはブラックの意志であって、自分の意志ではない。自身の意志の選択によっては結果の変化を予期できなかったのだから、彼自身は免責されることになる。

 フランクファートの主張では「ほかのようにはできなかった」ことが行為の理由として十分なのかどうかが基準にされていたが、それよりは誰の意志が結果の原因として十分なのかを用いた方が、より明確な判断ができるように思われる(「行為の理由・原因」ではなく「結果の原因」として十分なのか否かということ)。


 因果的な必然性は認識上の話なので、責任の所在を考えるには、すべての関係者がもっている情報をすべて把握している第三者目線ではなく、責任の所在になるかが検討されている当事者の立場に立って、当事者が把握しているだろう情報にもとづいて考える必要がある。

 責任とは外から与えられるものではなく、本人が自分自身の意志に与えることによって、自分自身の意志を原因とした行為や結果に影響を与えようというものだ。ゆえに本人が把握している有限な情報以外を、責任の前提とすることはできない。というのも本人の知らない情報を前提とした判断を本人はできないのだから、いくら外から責任を与えたとしても、本人の判断を本人が知らない情報を前提とした判断に変えることはできないからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ