因果関係から責任の所在を特定する(3)(4) ~教唆・あおりと共同不法行為の場合~
犯罪教唆だったり、ほかの人をあおって悪い行為をさせた場合は、どう考えればいいだろうか。
普段から自分の行動に責任をもっていれば、たとえ教唆されても無視したり、あおられても影響されないということは、十分に可能だったはずだ。
では教唆したりあおった者には、責任が生じないということになるのだろうか。
次の図を見てほしい。
まず思い出してもらいたいのが、人の意志というものがなにからできていたのかということだ。経路(目的と手段)が選択されることで、意志が確定する。
図9-2(3)は教唆やあおりによる因果系列を表しているが、主体Bは主体Cを教唆することで、特定の結果を引き起こそうとしている。つまり主体Cの特定の行為を手段として、特定の結果を生じさせることを意図している。これは主体Cの行為や引き起こされた結果も、主体Bの選択した経路の一部、すなわち意志の一部をなしているということを意味している。
よって主体Bの意志が結果に対して十分な原因となっているため、主体Bの意志が結果に対して必然性を付与していると考えられ、主体Bが責任を免れることはできない。
しかしだからといって、主体Cに責任がないわけではないという点にも、注意が必要だ。
主体Bに教唆されたりあおられたりしても、別の行為をすることが可能だったなら、その選択によって結果に必然性が付与されることには変わりがない。主体Cの選択によって、主体Bの意志が実現することになるからだ。そのためやはり主体Cも、結果に対しての責任を免れることはできない。
したがって結果に対する責任は、主体Bと主体Cがともに負う。
結果に必然性を付与した主体が複数あるという考え方には、困惑する人もいるかもしれない。
ここで思い出してもらいたいのは、第三章で必然性について説明した際に引用したカントの言葉で、可能性や必然性といった様相は、人間の認識能力との関係だけを表現したものだということだ。
つまりあくまで結果が必然か偶然かという違いは、われわれの認識外で一つに決まっているものではなく、ひとがそれぞれどのような情報を把握していたかという、認識のあり方に左右される。
そのため主体Bが把握している情報から、その結果が引き起こされるだろうことがどの程度予期できたのか、主体Cの把握している情報から、その結果が引き起こされるだろうことがどの程度予期できたのかといった、それぞれの事情から、個別に必然性の有無が評価されることになる。
ちなみに教唆やあおりのように直接意図したわけでなくとも、主体Cがその結果を引き起こすことになるだろうと十分に予想できていて、そうなっても構わないとあえて主体Bが行為したという場合だったとしても、(3)と同じ形になる。
意志には意図とは異なり、なにを手段として求めて行為したかのみならず、どのような結果を予測して行為したかも含まれる。そして責任は意図ではなく、意志を対象とする。そのため予測したとおりの結果となったならば、たとえその結果を望んだのが自分ではなく、自分の行為に影響されたほかの人物だったとしても、その結果は自分の意志によって必然性が付与されたものと考えられ、やはり責任を負うことになる。
さらにいえば(3)の形から、もし主体Cがほかのようにすることができなかったという場合には、(2)と同じ形になる。
図9-2(4)はいわゆる共同不法行為を表している。主体Bと主体Dの行為が合わさることで、一つの結果が引き起こされたのであり、どちらか一方のみでは、その結果は引き起こされなかったと考えられる場合だ。
この場合主体Bと主体Dの立場からはともに、結果は偶然的なものと認識される。しかしどちらもほかのようにはできたし、その行為によって悪い結果が生じる可能性があるということも、十分に予期できたとしよう。
結果は純粋な物理的現象として偶然的に生じたわけではなく、誰かしらの主体の意志のあり方を原因として生じているのだから、誰の責任でもないとするわけにはいかない。少なくとも誰かしらの意志のあり方に変化があれば、未来の類似の状況に置いて、結果を異なるものにすることは十分に期待できるからだ。
それぞれからすると結果は偶然的であるにせよ、少なくとも避けることは可能だったことを考えると、主体BとDがあわさることによって結果に必然性を付与したのだと判断し、それぞれに責任を負わせるのがいい。
信号無視の自動車と速度超過の自動車が衝突して、はじき飛ばされた車両が歩行者にあたって死なせたとしたら、どちらの自動車の運転手も、ともに歩行者を死なせたことに対して責任を負う。信号無視の自動車の立場からすると、速度超過の自動車がそのタイミングで交差点に入り込んでくるというのは、たしかに偶然だったのかもしれない。しかしその可能性があることは十分に知ることはできたのだから、その可能性を仮定した未来予測にもとづいて自身の行為を評価することもでき、合わせて結果は必然的になる。
第三者の視点から全体を見ても、少なくともそれぞれが結果の必然性に対して不可欠な要素であるわけだから、それぞれに責任を負わせることが未来のリスクを減少させると考えることは、妥当といえるだろう。




