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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
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因果関係から責任の所在を特定する(1)(2) ~基本ケースと不可抗力~

 行為の原因ではなく選択可能意志に注目することで、それぞれの意志の善し悪しを具体的に吟味しやすくなること、未来の類似の状況で異なる行動をとれる可能性を説明しやすくなることはわかった。また責任追及の正当性が否定される条件についても、ある程度整理できた。


 では実際に客観的な基準をもって悪意志を特定するには、どうしたらいいだろうか。

 責任の所在とは、非難に値する、つまり非難することに意味があるのは誰か、言い換えれば負うべき責任を負っていないのは誰かという問題だ。本章冒頭における責任の定義でいえば、あらゆる人が責任を負わなければならないということになるが、責任の所在あるいは非難の対象という話になると、その欠如に注目することになる。


 考えられる方法は、主に三つある。

 第一の方法は、オーソドックスに因果系列を用いる方法だ。しかしすでに述べたように、ただ結果や行為から原因をたどるだけでは、客観的に責任の所在を一つに決めることができない。

 ではどうするかというと、結果に対して<必然性を付与した>主体に責任を帰する、というルールを与えればいい。ここでの必然性は因果的必然性のことで、十分な原因を把握することによって結果が帯びる性質だ。

 つまりその人の意志のみが原因として把握できていれば、ほかの原因(ほかの人の意志)を考慮しなくてもその結果が生じることがわかるとき、その結果に対してその人は責任を負う。


 自分がすでにもっている知識を前提に、自分の意志によって結果に必然性が付与されるならば、その結果は十分に予期可能となる。その場合には自分の意志が異なってさえいれば、異なる結果になっていただろうことも、十分に予想できるはずだ。その結果に対して十分な原因が発生するかどうかは、少なくとも想定上では自分の意志しだいなのだから、自分の意志しだいでその結果を避けることも可能だったと、判断されることになる。

 それに対して自分の意志だけでは十分な原因とならない、つまり偶然的な結果に関しては、自分の意志だけでは結果が決まらないのだから、自分の意志だけではその結果を避けることができないし、反対にどのような選択を自分がしたとしても、相変わらずその結果を避けることが期待できる。すなわち自分ではなく、その結果に対して十分な原因をつくったほかの主体がその結果を避けることは、やはりまだ可能なのだ。

 必然的な結果は予期しやすいが、偶然的な結果は偶然性が高ければ高いほど、予期しづらくなる。そのため結果が偶然的なものの場合は、責任を負わせる意味がないことが多い。



 因果系列のパターンはさまざまにあるので、具体的に見ていこう。

挿絵(By みてみん)


 図9-1(1)では、主体Aの行為が主体Bに影響を与え、その結果としておこなわれた行為が主体Cに影響を与え、最終的に主体Bの行為の影響のもとに行為した主体Cの行為が、結果をつくり出したことを表している。

 責任は人の意志のあり方を改善するために存在している概念なので、責任主体(責任の対象になりうる存在)は、基本的には人間のみとなる。自然的物理的原因や、言語的コミュニケーションの取れない動物に対して責任を負わせようとすることには、なんの意味もない。そのためこの図でも因果系列は人間のみを考慮し、自然的物理的原因の影響は考えないことにする。


 主体AからCは三人とも、その行為をせざるをえない状態にあったわけではなく、ほかの行為を選択しようと思えば、選択できたとしよう。もちろんこれは、再び類似の状況になった際に、異なる行為が物理的道徳的に可能(矛盾がない)という意味だ。

 すると結果に対して必然性を付与したといえるのは、主体Cのみとなる。なぜなら主体Bの行為があっても、主体Cが異なる行為をしていればその結果は発生しなかった(Bからすると、Cがどのような選択をするかわからない)と考えられ、Bの行為が結果を確定させたとはいえないからだ。主体Aにしても同様で、どのような結果が発生するかは、主体Bと主体Cの選択に左右される。


 ここからわかるのは、自身の行為と結果の間にある因果系列に、ほかの主体の選択が挟まれている場合には、結果は偶然的なものになるということだ。

 この場合結果を必然的なものにするためには、自身の行為だけでは原因として十分でなく、ほかの主体の意志もあわせて原因として考慮しなければならない。

 自分にはコントロール不能なほかの人しだいとなるような結果までを想定し、日常的に気をつけて行動していくのは、現実的に考えて難しい。そのためほかの主体によって偶然的になっている結果にまで責任を負うとするのは、妥当でない。


 よってこの場合に結果に対して責任を負うのは、主体Cのみとなる。

 少なくとも主体Cが間違った経路選択をしうる人であること、少なくともその結果を避けようとはしなかったという意味で、悪意志をもっているのは間違いないだろう。たとえ主体Bから影響を受けなくとも、別の機会にまた似たような影響を誰かから受ければ、同様の行為によって同様の結果を引き起こす確率が高いと思われる。

 そのため最低限主体Cの悪意志を矯正することが、客観的目的のために求められる。


 もちろん主体Bが、もしかしたら自分が違う選択をしていればその結果を避けることができたのではないかと悩み、今後はより注意深く行動しようと決意するといったように、自発的に責任を負おうとするのは、道徳的に正しい態度といえるだろう。そうすることによって、責任の効果はより大きなものとなるからだ。

 だがそれでも第一義に責任を負うべきは主体Cであり、第三者からの主体AやBへの責任追及は効果が小さく、むしろ自由の侵害による公益の損失にもなりかねない。主体Cが異なる選択をしていれば、高い確率でその結果を避けられていたと考えられるのに対し、主体AやBが異なる選択をしても、主体Cがその結果を引き起こさなかったとは限らない。

 いじめをする人間がいじめられる側に原因を見出そうとするのは、たんにいじめる口実を探しているだけで、結果を必然的なものにしたという意味での本質的な原因は、いじめる側にあるということは多いだろう。その場合は、つまり理由があれば人をいじめてもいいという考えをもっている人がいる限りは、たとえ一過性の原因を取り除いたところで、いじめ行為はなくならない。それならいじめる側の悪意志に直接責任を負わせた方が、より確実な効果が期待できる。



 図9-1(2)の場合は、どうだろうか。

(1)との違いは、主体Cがほかにやりようがなかった、つまり正当な目的との間に論理的必然性があったという点だ。その結果を予期するのはその時点で得られていた情報や人間一般の能力的に不可能だとか、その結果を避けようとしたら重大な不利益を負うだろうことが予想されたなどの事情が考えられる。

 そのため主体Bの行為による影響で、ある行為をせざるをえなくなり、その結果がよくないものとなった。すると主体Cは不可抗力として、免責される。


 その代わりにもし主体Bが結果を予期するのに十分な情報をもっていて、能力や諸事情を考慮しても結果を避けることが可能だったとみなせるなら、主体Bの行為が、結果に対して必然性を付与したことになる。というのも主体Bの行為によって主体Cのありうる行為が一つに決まるのだから、主体Bの行為のみで結果に対して十分な原因になったと考えられるからだ。

 ゆえに責任は主体Bにある。


 さてここで問題となるのは、たとえば学校や職場でのいじめを苦にしておこなわれた自殺の場合、どう考えるかだ。この場合その結果に必然性を付与したのは自殺という行為だから、その責任は自殺者にあるということになるのだろうか。

 この問題を考える際に前提として理解しておきたいのは、主観的目的は必然的な目的であるため、本心から死にたくて死のうとするような人間は(とりわけ死を望むような強力な信念があるなど、特別な事情がある場合を除いては)存在しようがないということだ。そのため生きる手段がほかに存在していたなら、その別の手段をとっていたに違いない。そのため自殺行為は、社会が自身が生きていけるだけの価値をもっていないと判断されたことによる、やむをえない事由によって引き起こされた行為だと推定されることになる。

 もしこの結論を否定したいのなら、自殺者が進んで死を望んだといえるような、特別な事情があることを立証する必要があるだろう。たとえ第一章で説明したような誤認(死後の世界の存在)が原因の一つとして影響していたとしても、そのような考えをもっている人が多くいることは、社会通念上十分に予想可能なため、そこにいじめといった原因が加わることで結果を引き起こすに十分な原因となったなら、あとに加わった要因によって必然性が付与されたと判断できる。よって自殺行為を引き起こす行為いじめをした者に、責任が生じることになる。



 論理的必然性は免責をもたらすのに対して、因果的必然性は責任の根拠をもたらす。どちらも必然性と呼ばれながらも、責任に対しては真逆の効果をもっている。この点においても、必然性を二種に区別した意味が見いだせるだろう。


 責任とは、決して個人に帰せられるだけの性質ではない。責任の有無は結果の必然性に依存し、結果が必然的か偶然的かは、対象となる行為者と結果の間にほかの行為者がいるかどうかに影響される。責任を負わせられるのもしばしば社会的な作用によるということも踏まえれば、他者との関係を抜きにして責任を論じることなど、できるはずがない。

 にもかかわらず責任を論じようとしてきた哲学者の多くは、行為者と行為の結果だけに注目し、他者を含めた状況を無視してきたために、責任論についてめぼしい成果を上げることがほとんどできなかったのだろう。


 道徳的責任を因果関係に基礎づけていた前キリスト教的な部族的価値観は、責任を個人の内面からわき上がるものではなく、結果など外的なものとの関係を根拠にする点で正しい。ただしその関係をどこまでたどっていけばいいのかという客観的な基準がないために、個々の恣意的な判断によって責任の帰属を動かせるという問題がある。

 それに対してキリスト教的価値観は神に対する個人という形で、あるいは人間を生まれついて罪をもった存在とみなすことで、責任を個人の内面に直接植えつけた(*1)。このことは自律的な人間への一歩を踏み出すものだったとは思われるが、その代わり責任概念は世界や社会とのかかわりが絶たれ、無神論者に対する説得力を失った。

 これらを合わせて、つまり責任の根拠を再び世界や社会とのかかわりに求め、かつ個人の内面のあり方を因果系列の背進を止めるストッパーにできるなら、双方の利点がうまく取り入れられ、問題もきれいに解消されることになる。


*1 「『わたしは苦しんでいる。そしてそれは誰かのせいでなければならないはずだ』――これがすべての病める羊の考えることである。しかしこの羊の牧者である禁欲的な司牧者は、羊にこう言い聞かせる。『そのとおりだ、羊よ! それは誰かのせいに違いない。しかしこの誰かというのは、お前自身のことなのだ。それはお前だけのせいなのだ!』」。ニーチェ『道徳の系譜学』(中山訳)255~256頁。

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